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モラハラ母の晩年


晩年の母の姿は憐れなものだった。

暮れとお盆には帰省していたが、最初は飛ぶように売れたマルチの1組50万円のお布団も、売れなくなって在庫を抱えるようになっていた。

かつてお店だった隣の部屋は倉庫と化し、縦に積み重ねられた大きな箱で、昼間でも窓から射し込む光が遮られて薄暗く、それは母の人生を物語っているようだった。

「なん、最近 売れんの?」

「みんなお金ないんじゃない・・・」

お店だった部屋は昔、季節の花が彩りよく盛られて、芳醇なコーヒーの香りが漂い、マダム達の朗らかな笑い声とお喋りで活気ある場所だったはずなのに、そんな影もあとかたもなく、(ここが本当にお店だったの?)と想像つかない程、寂しく暗い場所になっていた。

いつか暮れに帰ったときに
「小川のお母さんは親戚のくせに、布団を買わんのよ!普通、親戚だったら、いつもお世話になってますねえ、ってお付き合いがあっても良さそうなのに、なんか常識のない人よ」
と、義母に不満たらたらだったが、その話はお姑さんからすでに聞いていた。


「あすみさん、お母さんが何回も電話してきたり、家まで布団持ってきたりして、困ってるんよ
私、布団はもういいわ、50万円あったら、私、みんな連れて旅行行くわ、あすみさんもその方がいいでしょ?」

頼まれたら嫌と言えないお姑をターゲットにして、抱えた在庫の布団をなんとか掃かしたかったんだと思う。
それに、お姑を抱きこんでしまったら、仲の良いお金持ちの兄弟や従兄弟に宣伝してくれるだろうと思ったのだろう。


「何で親戚だからって50万円のもの布団を買うのよ!5000円だったら、パッと払うよ、50000円でも、ギリギリお付き合いするよ、何で欲しくもない布団に50万円もだしてお付き合いせんといかんの?どうなってるの!お母さんの金銭感覚は!」

そうはっきりと言ってやった。

50万円もの布団が次々売れるわけがない。こうなるのはわかっていたから
「そんなこと早く止めてね!」
と、ずっと言ってきたが、聞かなかったのは母の方だ。


次の年の暮れに帰った時には、綺麗さっぱり在庫の布団はなくなっていた。
「止めたんよ」
そう聞いて心の底から安堵した。
ちょくちょく病院にかかるようになってから、もうできないと諦めたのだろうと思ったが、それにしてもあれだけの在庫の布団はどこに行ったのだろうと思ったが、その時には聞かなかった。

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「お母さんが救急車で運ばれた」
と、仕事先に父から連絡があったのは、4年前の春のこと。

体調が思わしくないことは、暮れに帰った時に、母から聞いていたが、それでも、お正月には、子供達に食べさせようと、何日も前からお節料理の準備をして待っていたから、急に悪くなったんだろうと思う。
母親が、救急搬送されたのに、長男も長女も病院に駆けつけることもせず、どうなってるのかと思ったか、担当看護師さんから電話がかかってきた。

「主治医の方から今後の治療について話をしたいと言ってますので、ご都合つけて病院に来てもらえませんか」

たしか、そんな内容だった。
「勤めて1年以内で、有休がとれませんので、帰れません。電話では駄目なんですか?」

そんな返事が返ってくるとはおもわなかったのか、電話の向こうで戸惑う様子が伝わってきた。
「・・・で・は・主治医の手が空いたら、お電話しますので、出られるようにしておいてください」

恐ろしく冷たく答えた自分がそこにいた。

私が救急搬送された時には、幼い子供達を残してどれほど、心細かったかわからないのに、母は手伝いも来なかったどころか、ざまあみろ とばかりに嫌みを言った。

www.hyumama.com

10日間ほど、入院した時には、マンションに住むお友だちが、2歳、3歳は一緒に遊ばせて食べさせてくれて、小学生の子供をお泊まりさせてくれたりしてとても助かった。
お姑さんがすぐに駆けつけてくれたが、新幹線を乗り継いでも5時間半。会社から帰ってきた夫が2ヶ月の赤ちゃんの面倒をみながらお姑がくるのを待った。

入院している間のおさんどんやお洗濯、保育園の送り迎えも、みんなが協力してくれて、私は本当に御恩を感じている

それなのに、実の母は何にもしてくれなかったどころか、嫌みをたっぷり言っただけ。

子供が生まれた時も赤ちゃんの顔さえ見に来なかった。



そんな母親が救急車で運ばれたからといって、私の心は頑なになるだけで、自分でその感情をどうすることもできなかった。

担当医が私に聞いた。
「お母さんの病名を知ってますか?」

母から前に聞いたような気がしたが、思い出せなかった。
うろ覚えの病名を伝えると、少し怒った口調で「○○○です!」と答えた。

なんて薄情な娘だろうと思ったことだろう。

でもそれは誰にも理解はできないだろう長い長い、母と私との変遷。仕方がない。

どうして母はお店をしていた時のようにキラキラしたままでいられなかったんだろう。

母は何になりたかったんだろう。
母の晩年は誰も寄りつかず少し寂しかった。










 

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