我が家のクリスマスはなんにも無し。
夫は自宅、娘夫婦は沖縄でウェディングフォト撮影のために沖縄へ。
長男、次男はお友達と。
三男はインフルエンザ。
私もアパートで質素に過ごしました。
従弟のところに子供が3人いるので、メリーのチョコレートを贈りました。
気持ちばかり。
この従弟とは、実母が亡くなった時にも、亡くなったことを知らせなかったのです。
と言うのも、私の結婚式の時に叔父に手を引かれて長男と共に参列してくれたのが、小学校1年の時。
よく遊んでいた長男である従弟は大学院生でしたが、高校の教師となってから、学校という職場に馴染めず、精神を病み、以後、入退院を繰り返すようになりました。
この子の母親が従弟が小学校入学の時に脳溢血で亡くなり、単身赴任で全国を飛び回る仕事だった叔父は幼い子の面倒を見てもらいたいと、再婚をします。
結婚式以来、会ったことはなく、年賀状のやり取りもなし。
後妻さんに育てられていて、長男も入退院を繰り返しながらひとり暮らし。
接点がほとんどなかったのです。
何の接点もなかったのに、実母が亡くなってから、しばらくして名産の梨と御仏前を送ってきてくれました。
あの小さかった従弟はすでに結婚し、3人の子供のお父さんとなっていると聞いてびっくりしました。
私の実母が亡くなったことを知らずにいて、ずっと後から親戚筋から聞いたと送ってきてくれたのでした。
「伯母さんと伯父さんには、父が亡くなった時に、お葬式のことやら、何やかや全部してもらって感謝しとるんです。僕は、まだ学生やったし、兄は入院しとったし、どうしていいかわからんかった時に駆けつけてくれて、全部してくれたんですよ」
そんな話しも聞いたような気がしたが、すでに結婚して、私は実家を離れていたし、叔父が亡くなったと聞いた時には、とても悲しく思ったが、後妻さんが仕切ってやっているもんだとばかり思っていたんです。
かかってきたお礼の電話で、かなり衝撃的な事を聞きました。
入退院を繰り返していた長男が57歳という若さで10月に亡くなったと言うのです。
「えっ?」
耳を疑いました。
当時、大阪に住んでいた叔父を「大阪のおじちゃん」と呼んでましたが、長男を連れてよく遊びにきてくれました。下の弟とは15歳離れているので、まだこの時には、生まれていません。
地図や鉄道路線が好きで、そんな本ばかり読んでいたせいか、日本中の鉄道の駅名を漏らすことなく、空で言えるほどで、3つ違いの従弟だったけど、子供心に(この子賢〜い)と思ったものです。
勉強が得意で、国立大学、大学院に行き、高校の社会の教師となったようですが、学校という職場に馴染めず、精神疾患にかかりました。
母親がこの頃亡くなったのも、病気の引金になったんだと思います。
それまでひとりっ子だったし、勉強もできたし、とにかくお母さんはすごく期待して過保護に育ててしまったんでしょうね。
実母も兄に対してはかなりの過保護でしたが、食べる物も、嫌いな物は食べさせる努力もせず、卵焼きと好きなお菓子ばかり食べさせて、かなり太っていたと思います。
「何で亡くなったの?」
「腎臓がずっと悪くて入退院繰り返してましたからね精神病もあったし、長かったですからね」
「何か、よく勉強が出来たイメージなんやけど、大学院行ったよね?」
「勉強はできたか知らんけど、生活力は僕の方が数倍ありますよ(笑)」
「親が過保護やったけんですね~」
「う・・・ん、まあ大事にされとったよね」
「ほったらかしくらいがよかですよ、僕みたいに(笑)」
電話の声から余裕が伝わってきた。
何でも先回りして過保護に育ててしまったせいで、食べ物の好き嫌いが激しく、偏った食生活になり、それが起因となり、糖尿病を発症。精神疾患がなかなか良くならず、そのうちに腎臓も悪くなり、腎不全で亡くなったというのです。
カメラが趣味だった叔父さんがあっちこっち家族で旅行した写真を得意げに見せてくれたことがあり、鳥取砂丘でラクダにまたがっている写真を見て、とても羨ましく思ったのを憶えています。
おぼっちゃまみたいなヘリンボーンのオーバーコートをきて白いタイツに茶色の革のブーツを履いて写った写真は幸せな家族、以外の何ものでもなかったのに。
20歳過ぎから、亡くなる57歳まで、社会復帰と入退院を繰り返す人生になってしまったことが、哀しく憐れに思えました。
今は天国で大好きだった両親と再会していることでしょう。
再婚したお母さんとの話しも聞いたので、また記事にしたいと思います。
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