クリスマスに従弟宛にチョコレートを送ってから、かかってきたお礼の電話で「兄が亡くなりました」との衝撃的な話しを聞き、その後、いろんな話しから、叔父と再婚した継母の話しになった。
叔父は、親の営んでいた廻船問屋が戦火で焼かれて、無一文になってから大学進学せずに、高校を卒業すると造船会社で働き始めた。
まだ下に2人の弟がいたために、その学費を賄うため、母と共に一生懸命働いて、家計を助けようとしていたんだと思います。
最初のお母さんのことは従弟を連れてよく遊びに来ていたので、私も記憶があります。
大柄な人のような印象があります。
私が小さかったからかも知れませんけど。
とにかく、ひとりっ子だった従弟のことをとても大事にしてましたね。
あまり世話を焼き過ぎるので、叔父が時々、「自分でやらせろ」的な事を言っていたように思いますが、気の強い人で、たぶん叔父はお尻の下に敷かれてたんだと思います。
その方が家庭はうまくいきますけどね。
私の母はお尻の下に敷かれている弟を見ていたからか、この気の強い奥さんのことはあまり好きではなかったんだと思います。
でも従弟のたった独りのお母さんですからね。
15歳離れて弟が生まれました。それが昨日の電話の主です。
叔母さんはさぞ喜んだことと思います。
ところが、生まれたその子が小学校に入学して間もなく車を運転中、脳溢血で亡くなってしまいます。
時は、造船業が盛んで、叔父は高卒でしたが、お給料はとても良かったみたいで、母が羨ましがっていました。
叔父はカメラと家族を旅行に連れて行くことを唯一の趣味にしていました。
働き盛り、日本中の造船所を行ったり来たりしていた叔父。
幼い息子に母親が必要と思ったのでしょう。
それとお尻の下に敷かれていたのもあり、割とすぐに再婚したい気持ちになったのかも知れません。
どんな御縁でその女性と知りあったか、また従弟に聞いてみようかと思いますが。
大事な弟のお嫁さんになる女性、しかも自分の子ではない息子のお母さんになる人がどんな女性なのか、私の両親が、確かめに行ったと思います。
面接した母親がもう、それはそれは上機嫌で帰ってきました。
新しく奥さんになった女性は、難関国立大学を卒業し、派手な感じのない、明るい感じで
「美代子さんが、気が強かったから、ほんとに良い人に来てもらって良かった〜」
と、とても喜んでました。
学歴のない母は、学歴だけで、人を判断するところがありました。
一瞬あれは嘘だったんじゃないかと電話で従弟に聞いたら、どうやらそれは本当のことのようで、公文式の塾も経営していたそうです。
私の結婚式に叔父に連れられて参列していた従弟が、母親が亡くなって、継母にどのように育てられたのか、梨を送ってきてくれたところから、お歳暮とお中元をやりとりするお付き合いが始まり、そして昨日、よく遊んだ従弟が亡くなったことを知り、この2人が一体どんな風に暮らしてきたのか、私ははじめて聞くことになりました。
叔父は収入も良かったので、きっと幸せに暮らしているとばかり思っていたのですが、従弟から聞く話しは、耳を疑うようなことばかりでした。
「新しいお母さんにイジメられたとかないよね?」
もう結婚して3人の子供のお父さんになっている従弟に、何を今更という話題でしたが、恐る恐る聞いてみたのです。
「イジメられはせんかったばってん、放任ですわ」
聞くと、空腹の従弟に与えられた夕飯がお皿の上に蒸かしたじゃがいもが1個とか、ホッケの開きが1枚とか、それも別々の場所で食べていたと聞いて驚きを隠せませんでした。
そんな風だったら、お誕生日だからケーキを食べるとか、クリスマスだからみんなでチキンを食べるとかもなかったでしょう。
小学校の5.6年生にもなると、自分の食べる物に疑問を持つようになり、その時に家に何個も置いてあった叔父の趣味だったカメラをひとつ手にとり、フィルムを買ってきて、あまりにも酷い夕飯を毎日、写真に撮って、写真屋さんにもって行き、出来た写真を「毎日こんなんしか出てこん」と、お父さんが帰ってきた時に見せたそうです。
写真を見た叔父はびっくりしたそうです。
従弟の食費として毎月5万円を渡していたそうですが、それからは直接手渡してもらい、「自分の食べるものは自分で作る」と言い料理の本を買ってきて毎日、自分で作り、洗い物をし、洗濯物を干しと、新しいお母さんとは名ばかりで、「ただの同居人ですわ」と切り捨てましたね。
この女性は、叔父が1年のほとんどを単身赴任で留守をするのを良いことに、息子の食費さえもピンハネして、自分の贅沢のために浪費していたようです。
「悪質ネットワークビジネスや新興宗教にはまって霊感商法グッズを人を騙しては売りまくり、うまく行かなくなると借金して、兄にまで背負わせようとしてましたね」
まるでどっかの毒母です。
従弟は父が亡くなった時に、うちの両親にとてもよくしてもらって感謝していると話してましたが、うちの母親もその人と同じよと言いそうでしたが、ぐっと飲み込んだのでした。
嫌いとか好きとかそんな感情はない。そんな感情さえ持てない違う種類の人間と言い捨てました。
その女性は叔父が仕事を辞め、年金暮らしとなってから、急に姿をくらましたと言いました。
「なんか毎日一緒におるのが、うっとおしくなったんやないですか」
従弟はそう言ったけど、私は実母からこの時のことを聞いていた。
急に姿をくらましたのは、叔父に癌が見つかったからだ。
治る見込みのない病気にかかったことを知り、金づるとして用が無くなり、クロコダイルやオーストリッチなどの高額なバッグを叔父の名義で長い長いローンを組んで姿をくらましたと言うもの。
従弟には言わなかった。
叔父は腹膜癌と言う希少な癌でこの世を去った。68歳だった。
長男は精神疾患と腎臓を患い入退院を繰り返して、学生だった従弟に、葬儀を仕切れる訳はなく、この女性のせいで、蓄えもすっからかんになり、式から費用からをうちの両親が取り仕切ったと聞いた。
幼い頃から母親の愛情を知らずに我慢と辛抱をさせられながら、生きる力をつけてきた従弟。
3人の子供の父親となり、幸せに暮らしているようでほんとに良かったと安心した。
精神疾患と腎臓病を患い入退院を繰り返していた長男は、生活保護で暮らし、最期は誰にも看取られずに息を引き取ったと言う。
その顔がほんとに安らかで、葬儀屋さんも「こんないい顔は見たことない」と言ったくらいだそうだ。
きっと先に亡くなったお母さんとお父さんが迎えに来てくれたんだろう、そう感じた。
何不自由なく、両親の元で愛情深く育てられ、国立大学大学院まで行ったのに、社会に順応できずに、社会復帰と入退院を繰り返しながら生活保護を受給せざるを得なくなった従弟。
考えると、あまりに哀しい。
みんな明日のことはわからない。いつ自分がそんな風になるかわからないのだ。
幸せに暮らしていると思っていた従弟が電話の最後に言ったこと。
「実は別居しとるんです」
※従弟と電話でいろいろ話すうちに話しが前後して誤りがありました。母親が亡くなったのが小学生の時、父親が亡くなったのが大学生(?)専門学校(?)とにかく学生だった時だそうです。わかりにくくてすみません。私自身はじめて聞く話しが多かったため、混乱していました(汗)
続きはまた
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