朝、私は近くの神社にお参りに行って、お願い事をしてきた。
正直なことを話すと、私は高校時代から友達に連れられて行ったキリスト教会で、若いときに受洗をしたキリスト教信者でもある。
それなのに、近くの神社で手を合わせてお願い事。何と!罰当たりな!
私も手を合わせるとか、少し後ろめたかったが、キリスト教会には、もう10年行ってない。
教会の牧師先生にパワハラを受けたからだ。
以来、宗教って何だろうかと考えるようになった。
牧師だって人間で、教壇に立っている時には素晴らしい説教もするが、自分の理想とする教会にしたいと思うあまりに、自分の思いばかり押しつけて、こちらの思いを伝えると、
「あなたは信仰が足りない」
と、一刀両断だった。
打ちのめされて以来、もうその教会へは行かなくなった。
曖昧な表現でわかりにくいが、牧師という宗教者からすると、子供のことを優先していることが怠惰な暮らしに思えたのだろう。
女性牧師は未婚で子供もいなかったので、秋になると、やれ運動会や文化祭などで、行かれなかったのに、日曜礼拝に行かないことを強く非難された。
「ご主人はどうしてるの?」
奥さんが教会に来ている間、見てもらえばいいじゃない、というような口ぶりだったが、結婚生活を経験していたら、そんなことは言わないだろう。
日曜礼拝に、ということではなく、私は当時、ただ、ピアノを弾いていた、ということだけで奏楽を持ち回りでやっており、同じ鍵盤楽器でありながら、まるっきり奏法の違うオルガン演奏が負担でならなかったのだ。
しかも、日曜に礼拝があるのに、賛美歌番号を知らせてくるのが、水曜日だった。礼拝の中で歌う賛美歌は3曲。
♭が4つついてあるのもあれば、シャープが5つなど。
他の2人は、独身だったり、子供さんが自立されてたりしているから、いいが、私は子育てに奔走していて本当に練習時間がなかった。
しかも、子供の送り迎えなどに夫の協力は得られない。
サッカーの試合があるときなどは、そこまで、子供を連れていき、テントを立てたりして手伝ったあと、多急ぎで、教会に駆けつけ、下手なオルガンをひく、とってもストレスで、何度「忙しくてできない」と伝えたことだろう。
その度に、なんとかかんとか言われて、やってきたが、4人の行事が重なる秋になり、いよいよ2ヶ月くらい奏楽当番をしなかった時だった。
「あなたは信仰が足りない!」
(こんなに時間を縫うようにして一生懸命やっているのに?)
なんだかその言葉に打ちのめされて、以来、気持ちが和やかになり、気持ちが新たになるのが教会であったはずなのに、行く度にストレスを感じて遠退いてしまった。
今でも、何か語りかけるときには、キリストという神様に・・・ということが多いが、父に連れられて初詣に行ったことも、この年になって懐かしく思い出されたのだ。
そう言えば、子供達も、私がキリスト教信者だったことで、初詣には連れて行かなかった。
今は友達と自由に行っているが、家族で仲良く初詣に行くという行事も、日本の風物詩として経験させてやれば良かったと後悔している。
以前住んでいたところの友達からあけましておめでとうのLINEが届いた。
やっぱりいろいろあったのか、キリスト教会から出て、神仏を信仰するようになったとあった。
土曜日の1時から、NHK教育の方で
こころの時代という番組がある。
時間が合えば、いつも見ている。
テーマ曲にもとても癒やされる。
この番組は、昨年ゴールデンウィークに遊びに来て、30年ぶりの再会となったゆみ子から聞いたものだ。
今日はたまたま【宗教とカルト】という問題を掘り下げて第3回目ということで、宗教学者やお寺の僧侶、教会の牧師などが集まり宗教について語った。
僧侶の岡田さん、女性の方だったが、中高はキリスト教会に通い、ずっとキリスト教の教えを学んでいたが、ある時から、禅の教えに開眼して、以来、僧侶の道を歩むようになったと語っていた。
「今でも時々聖書を開いて読んでいる」
と語ったことに、私は何故か安堵した。
またある宗教学者は、宗教は研ぎすまされた槍(言葉が違ったかも)
右に傾けば世俗的な物に染まり、左に傾けば、排他的な思想に傾くと語っていた。
その真ん中が宗教と言われる物ではないかと。
宗教がなければ世の中は世俗的なものばかりに染まってしまうのではないか。
人格形成をするためにも、宗教の存在はあり続けなければならない。と。
教会に通う信仰者。そこから離れて月日がながれたが、昔、父に連れられて行った神社のことを懐かしく思い出し、自然に手を合わせて、神仏に感謝を伝える気持ちになれたのも、また信仰心が導いてくれたのではなかろうか。
題名の話になりませんでしたが、この後の記事にしてみます。
お読み下さりありがとうございましたm(_ _)m