地方放送局の番組で男性育休のことを取り上げていた。
4人の育児は、もうそれはそれは言葉では言い表すことができないほど過酷で、4人目の子供が2ヶ月の時に、身体が限界だったのだろう。
私はそれまで痛めていた腰痛に激痛が走り、椎間板ヘルニアになり救急搬送され、そのまま10日間入院生活を余儀なくされた。
1番下の子が2ヶ月、すぐ上の子が2才になったばかり。長男は保育園にいくようになり、長女は小学校3年生だった。
生まれて2ヶ月しかたたない赤ちゃんがお腹を空かせて泣いているのに、もう私は動くことが出来なかった。
いつもは夫が会社へ出かけた後、玄関を閉めるのに、その日は偶然、鍵をかけないでいた。
(どうしよう)
激痛で身体全体冷や汗が湧き出てくるのがわかった。
2才になったばかりの次男。
まだ喋ることも出来なかった。
最近、子供達がおもちゃにするので、アップライトピアノの上に電話の子機を置いていたが、この激痛では取るのはとても無理だったが、次男を褒めそやして、
「ピアノの上の電話は取れるかなあ~?取れたら偉いな~」
2才でも、3月生まれの次男は小さかったが、チェストや、CDコンポを足がかりにして、その小さな身体を弓のように反らせて手を伸ばし、子機に手が届いた時には、
「えらいね~!すごいね~!お母さんに持って来れるかなあ?」
などと、おだてまわして、子機を手にした時には、神様に何度もありがとうと感謝した。
同じマンションの友達に電話した。
「ちょっと来て!動けない」
すぐに駆けつけてくれた友達は、激痛で汗でだくだくになっている私を見て、おろおろした。
「どうしたん!」
「わからん!腰が痛くて動けないんよ」
お腹が空いて傍で泣き叫んでいる赤ちゃんにミルクを作って飲ませてくれた。
もう何がなんだか混乱してわからなかった。
(私はどうなるんだろう、この家は?子供達はどうなるの?今日の晩御飯は?)
友達が電話帳で、いろいろ病院に電話をしてくれたが、この状況では、救急車を呼ぶしかないと言われて、救急車を呼ぶことになった。
友達は、会社に電話してくれて夫に様子を伝えてくれて、間もなく夫が帰ってきた。
救急車は到着していたが、激痛で、担架に移ることさえできず、ずるずると数センチずつ身体をずらして担架に移り、救急車に乗り込むまで2時間を要していた。
マンションの玄関にはずっと救急車が止まった状態で、近所の人たちが何事かと、野次馬がたくさん来ていたようだった。
この時のことを書くと、1記事では済まなくなるので、この辺で止めておく。
伝えたかったことは、もし、当時、男性が育休をとる制度があったなら、この過酷な4人の育児にもう少し理解を示してくれたんじゃないだろうかという思い。
後にも、夫の前で手を合わせて
「お願いだからもう少し手伝ってほしい」
と拝むようにして伝えたのに、夫は、冷めた目つきで
「おふくろを呼んであげようか」
というだけだった。
お姑は時々、来ては家事を手伝ってくれて、それはそれでとても助かったが、育児は毎日のこと。
これだけ頼んでいるのに、言葉で伝えているのに、大変さを傍で見ているはずなのに、夫はまるでひとごとのようだった。
長女には友達のところに遊びに行っているのを途中でかえらせて、お風呂からあがった赤ちゃんのミルクをのませてもらったり、手伝わせた。
ヤングケアラーみたいだった。
私に精神的な余裕もなく、手伝ってくれているのに、よく叱り飛ばした。
どんなふうに過ごしたかよくわからない覚えていない。
ただ、ただ、過酷で大変だった。
それだけ。
どこまで頑張ればいいのか、神経がすり減っていくばかりだった。
子供達に晩御飯を食べさせて、夫の酒のつまみにはじまり、白米を食べない夫をお腹いっぱいにさせるおかずを毎回作り、子供が眠たくなってぐずりだすと
「早く寝かせろっ!」
と怒鳴られた。
歯磨きをしてそれぞれ寝かせようとすると、私が1番先に寝落ちした。
長女とはたぶんお風呂も一緒にはいったことはない。
子供達を寝かせてから、気がつくと夜中の2時、3時。
台所の鍋や茶碗はそのまま、ぬぎ散らかした洋服も。
夫は晩御飯を食べてお酒を飲んだら寝るだけなのに、
「一緒に寝かせてほしい」
と言ったら
「はぁっ〜!?」
と、誰に向かって言ってるんだとばかり不機嫌になった。
夜中に起きて茶碗を洗った後に、冷たくなったお風呂に入る毎日。
もう、睡魔が襲って浸かるだけ。
髪は5日連続であらえない時もあった。
もうこの話は止めよう。
どうして、協力してもらえなかったんだろう。
もっと子供達と楽しい食卓にしたかったし、絵本を読みながら眠りたかった。
余裕なし。
普通だったんだろうか。あの生活。
桜が咲きはじめた。