あすみとモラハラ夫との卒婚生活

モラハラ夫  卒婚生活 カサンドラ

小説 螺旋階段 Ⅱ


霧に包まれた深い森を彷徨っていた涼子は、きっとこっちの方角だと、微かな明かりが差し込む方角へと歩みはじめると、どこからか、夫、雅之の声が聞こえてきた。

「どこ歩いてるの、こっちこっち」

「あっ、雅之さん、どこ?どこにいるの?」

「こっちだよ」

声が聞こえる方は、涼子が微かな明かりを求めて歩いている方角だった。

(良かった。どっかで迷ってたんだ)

明かりの方へと歩いていると、突然、視界が広がり明るくなった。

眼の前には高い高い塔がそびえ立っている。

 


「こっちだよ、入ってごらん」

(雅之さん、ここにいたんだ、どうしてわからなかったんだろう、こんな高い塔なのに)

声を頼りに一歩足を踏み入れる。

 


見上げると、遠く上の方から明るい光が差し込んだ。

さっき光を頼りに歩いてきた道は、上から差し込む光が深い森に漏れていたからだ。

(高い塔・・・)

「どこ?」

「ここ、ここ」

声の方を見上げると、夫が渦巻く螺旋階段の上から半分顔を出して手を振り、笑っていたように見えたが、光を遮り陰となりその陰翳だけがいつまでも目の奥に残像として残るのだった。

(なんだ、どこに行ったのかと思った)

涼子は夫が手を振る姿にどんなに安心したことだろう。

そうして、涼子は雅之に追いつこうと、螺旋階段を早足で昇りはじめた。

それがやがて脱出不可能な異次元空間になるとも知らずに。

 


✥✥✥✥✥

 


親がなんとしても24歳までに結婚させないとと、結婚などする気もないのに急かされていた涼子。

当時は24歳のクリスマスケーキと揶揄され、脅迫観念に襲われていた。昭和のバブル前、そんなひとは多かったのでは。涼子も例外ではなかった。

 


それが結婚に至ってしまったのには、もう、何をどう説明すればいいのかわからない。

学校も就職も、今の時代なら、親ガチャに外れた毒母に間違いない実母の意思によって涼子の人生の全てが決定づけられた。

「バス代がかかる」と交通費がかかる学校は、それが志望校であっても却下され、就職に百貨店を志望すると、「給料が安い」と、就職の基準がやりがいや、興味ではなく、高い給料の格式のあるところでなくてはならなかった。

 


都会の大学への進学など、もちろん無理。

就職も家から歩いて通えるところ、また働きはじめたら、食費の名目で

「家にお金を入れるのよっ」

ヒステリックに激高する母親に逆らうことなどできなかった。

だいたい、食費は3万くらいのものだろう。涼子は最初は毎月5万だったが、そのうち、給料のほとんどを差し出さなければならなくなる。

「家にお金を入れるのよっ大変なんだからっ」

それが母の口癖。

けれども母親を見る限り、パン教室や着付け教室、お花にお茶に戸塚刺繍教室、おしゃれな服で身を包み、学校から帰ると奥の部屋で外商さんが宝石の箱をいくつも広げているのを何度も見たし、行きつけの和食器の店で、毎週のように趣味の器を買ってきて、友達を招いては料亭のような料理を作ってもてなし、自由で華やかで、とても困窮した生活のようには見えなかった。

 

 

ある時、カトリックの幼稚園時代からいつも遊んでいた、ひとつ上の兄と一緒に真理ちゃんや恭子ちゃん達と小学校卒業を期に親子で旅行が計画された。

新しいスタイルのリゾートホテル、大きな滑り台のあるプールや劇場が併設されたホテルがオープンしたことをテレビのコマーシャルで、再々宣伝していた。

子供達が思いっきり遊べる遊技場などあって、子供にとっては夢の世界に見えた。

「行く行く〜涼子も行く〜連れてって〜」

と何度もせがんだ。

「そうやねえ、ちゃんと言うことを聞いてお手伝いしたらね」

「うんうん」

楽しみでならなかった。

 


小6ともなると、男ひとりは嫌だと兄は行かなかったが、いつも遊んでいた友達。連れてってもらいたい一心で、毎日のように母親に頼み、言われたお手伝いは何でもした。

ある日目が覚めると、母親の姿はなく、父に力なく尋ねた。

「お母さんは?」

「なんか、出かけたよ」

父は私の方を見なかった。

きっと口止めされていたのだろう。

それ以上は言わなかったし、涼子もそれ以上聞かなかった。

聞かなくてもわかった。

あの時ほど、がっかりしたことはない。

翌日夜に帰ってきた母に、

「どうだった?どうだった?」

と聞くと、

「なんてことなかったよ」

と言うのだった。

要らぬ情報を入れる必要はないと思ったのだろう。

なんてことないはずはない。

お母さん達は4人、子供は姉妹も含めて6人、女の子ばっかり、夜はしゃいでお喋りで大騒ぎすることなど、目に見えている。それなのに、自分だけ留守番。

「『なんで涼子ちゃんこんかったん?』って聞かれたけん、『行きたくないんだって』って言うといたわ」

そう言ってそっぽを向いた。

(・・・・・)

この返事にも思いっきり落胆した。

行きたくないわけがない、行きたくて行きたくて仕方なくて、毎日のように母の前で「連れてって」と手を合わせ、言われたお手伝いは何でもした。

それに私が『行きたくない』と返事したと伝わったら、それまでいつも一緒に遊んでいたのに、仲間外れされるんじゃないかと、不安でいっぱいになった。

(なんでそんな嘘を言うのだろう)

 

自分がどんな顔をしていたかわからない。落胆と悲しみと恨みがましさで母を見たんだと思う。

そうすると、満面の笑みを浮かべて母は言う。

「よく我慢したね~えらかったねえ」と。

それでも泣きそうなくらいがっかりして、ふくれっ面してたんだろうと思う。

「ほらっそんな顔しとったらブスがもっとブスになるよ、笑っとかんとっ」

悲しいのに笑えという母。

 

 


全ては自分の気分次第。

そう言って我慢と辛抱を幼い子供に強いる。

悲しく落胆を抑えられない気持ちでいる涼子を褒める母親。

最初から連れて行く気などなかったのだ。

連れて行くかも知れないという期待を持たせて、いろんな手伝いをさせる。

そして思いっきりがっかりさせる。

こんなことが家の中で、私にだけ何度となく繰り返された。

 


どんな願いを言ったところで、叶えてもらえない母親に期待をしなくなり、何の相談もしなくなった。

涼子はいつしかほんとの気持ちを口にしなくなり、心に蓋をするようになってしまった。

 

母は美しい人だった・・・

お洒落でお料理上手、何でも器用にこなし、センスが良かった。幼い頃の涼子にとって母は怖かったが、そんな母が少し自慢でもあった。華なやかな雰囲気に、寄ってくる人は確かに多かったが、美貌に女の世界独特の嫉妬もあって、敵も多かった。

 


兄は母親似、涼子は、大嫌いだった小姑に顔がそっくりだったし、優秀な兄と比べられ、不器用な私を見て

「うちの系統じゃあ無いね」

と母親はよく言い放った。

実際、似ても似つかなかった。

うちの系統じゃあなかったら、自分はどこの誰だと言うのだろう。

私は血の繋がった娘に違いないのに、母の中ではずっと身内や家族ではなかったのだ。

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