中に立った人の、顔を立てるためにと言われて仕方なく会ったお見合い相手が雅之だった。
光沢感のあるグレーのスーツに身を包み、足を組見直す手の袖口からチラッと覗くメタリックな腕時計が、社会人としての貫禄を見せつけた。
終始笑顔でにこやかに喋る好青年。
6つ年上で、友達に誘われて通っていたキリスト教会に集う同じような年回りの男子たちが、急に幼稚に見えたのは確かだ。
お見合いの場についてきた雅之の母親もまた、いいとこの奥様という雰囲気。
太っているわけでは無いが、肉付きがよく、ショートカットで小脇にセカンドバッグを抱えてにこやかに挨拶をした。
見るからに仕立ての良いスーツは深い紺色、白い襟が二重仕立になりアシンメトリーなラインがシャープな印象で何としても30歳までに長男の結婚を決めてしまいたいという母親の意気込みのようなものが伝わってきた。
毒母に搾取され続ける生活から、自分は、ゆみ子や、真紀みたいに留学したかったことを思い出した涼子は、誰にも邪魔をさせないと意を決して、留学に向けて貯金を
始めたばかりだった。
それまでもそれからも、
「結婚する時には全部こっちがせんといかんのに」
という決まり文句で、母親に搾取され続けるが、
「これいらんかね?」
と馬の鼻の先に人参をぶら下げるかのように、涼子が好みそうな洋服を両手で掲げて見せた。
その手になんか乗るものか。
「いらん」
目もくれてやらなかった。
涼子の母親は自分が着るために買ってきた高い服を1度袖を通しては、気に入らなかったと、
「着ない?似合わんかったわ」
とお下がりを回すのだった。
あちらこちらお店に付き合いもあるのか、あれこれと買ってきては、
「なんとなく違った」
それなら買ってこなければいいのにと思ったが、涼子も通勤するのに洋服は枚数必要で、もらえるんだったら、まあいいか、と母から回ってきたお下がりの洋服を安易にもらって着ていたのだった。
クリーニング代、電話代、保険代と、食費以外に、家に収めている娘に対して、少し悪いかなと母が歩みよってきたのかと思っていた。
それがどうだろう、ずっと後になって
「早くお金ちょうだいよ」
と請求してくる。
「え?何のお金?」
「洋服よ〜」
「え?くれたんじゃないん?」
「誰があげるゆうたのよ、高かったんよ~ええわあ、半額にしといてやるけん買い」
「買うんやったら返すわぁ」
「何回も着たもん返せれんよ、今さら
4万にまけとくわあ」
と、今までもらったんだとばかり思っていた洋服の数々を後から後から請求してきて、
「払えんのやったら今すぐ家から出てって」
と、できもしない無理難題を突きつけ、給料を搾取していた。
ひととおりお金を払ったあとは、「あげる」と言っても「いらない」と断った。
「ひとがやる言うてるのに可愛げがない子っ」
そう吐き捨てたが、もうその手に乗るものかと、けたたましい物言いに耳を塞ぐのだった。
家の中の母娘のそんなやりとりを、誰が見ているというのだろう。
父は仕事で家を空けることが多く、兄は大学で県外に出ている。
父に言ったところで、母親が上手に言いくるめて、『少しも言いつけを聞かないどうしようもない娘』として、反対に叱られることなど目に見えている。
朝から晩まで女帝のように振る舞う母親のために、ただ、ただ、働きお給料を搾取され、早く帰れた時には夕飯まで作り、洗い物をする毎日。
友達に誘われて行っていたキリスト教会で過ごす時だけが、自分を解放できる唯一の場所だったのだ。
✥✥✥✥✥
涼子は2回目に会った時に雅之とのお見合いをお断りした。
雅之は社会人として地道に働いているサラリーマン、周囲の友達も次々結婚する中、雅之だけが、社宅の1番の古株になり早く身を固めたい気持ちでいたのだろうが、涼子の気持ちはすでに留学に向かっていたし、教会で出会った同い年の男性に気持ちが惹かれていたからだった。
涼子は中に立ってくれた人の顔を立てる意味で気に沿わぬお見合いをしたことを伝え、丁重にお断りしたのだった。
留学したい涼子、母親の薦める人となんとか結婚したい雅之、大学院に行きたいBF、それぞれのベクトルが全く違う方向に向いていて、とても纏るわけがない。
ところが、断ったことで、雅之を焚きつける結果になってしまう。
それは後で知ることになる雅之の特異な人格の、それはひとつの特徴に過ぎなかった。
雅之とお見合いをして、気に入ってくれたのは、本人ではなく、お姑の方だったのではないか。断った時のお姑の落胆と言ったらなかったそうだ。
雅之が幼い頃から母親に欲しいものは次々与えてもらったように、雅之はなんとしても、お姑のたっての望みを叶えてあげたかった。その親孝行のひとつがお姑の望む女性との結婚だったのだろう。
クレーンゲームで母親の欲しいおもちゃをなんとしても釣り上げ、それを母親に差し出すように。
涼子はクレーンゲームの玩具だったのかも。
結婚後に雅之の口から出た言葉に涼子は違和感を覚えていた。
「30までに結婚させんとって心配してたからね、お袋が喜んでくれて良かったよ」
雅之は、自分の恋愛感情より、母親の気持ちを最優先させたのだ。果たして恋愛感情など雅之にあったかどうかさえ疑問だ。
違う方向に向いていたベクトルが、人ではない何かの力による働きによって決まってしまったとしか言いようがない。
それが『縁』と言うならそうかも知れない。
切々と自分との結婚を望む雅之に対して閉ざしていた心が溶けていくのを涼子は感じていた。
会社で女子社員にいい加減な男しか見なかった涼子は、誠実な態度に半ば情に絆されたとしか言いようがない。
雅之はただ勝者になりたかっただけなに、そんなこと若い涼子にはわからない。
年上の誠実で正直で包容力のある男性。そう思っていた。
涼子はこれは今まで毒母のいる家で、我慢と辛抱を重ねた末に、神様がご褒美をくださったのだと、やっと幸せになると信じて疑わなかった。
雅之が突然豹変したのは、アメリカ西海岸の新婚旅行を終えて日本の空港に着いた時だった。