それにしても、毎日、毎回、繰り返される夫からの作った料理へのダメ出しに、涼子はほとほと疲れていた。
泊まりがけの出張が入ると、ほぉーっと胸を撫で下ろすのだ。
作った料理のダメ出しは、その時その時で全部違っていた。
ある時には使っている肉の部位について、ある時には、そのグラム数について、ある時にはどこで買ったか、その値段に至るまで。
適当な返事をすると
「そんなことも考えんで買い物しとるんかぁ!」
と大声で叱責された。
当時、4年生になる長女、そして4歳になったばかりの長男と3歳の次男、食卓にかけたベビーチェアで、三男も座れるようになり、やっとみんな揃ってご飯を食べられるようになった頃、
家族で囲む食事は、食べさせたり、こぼしたり、大変だけれども、幸福な時間のはずだった。
席についたみんなが「いただきま〜す」と
と箸を取った時だった。
「ああーっ!」
雅之が急に顔色を変え大声を出した。
「なに?なに?」
子供達は夫の叫び声にびっくりして止まった。
「僕のあさりの方が少ないやないかっ!」
隣に置いていた長男のお椀の中のあさりを見て叫ぶのだ。
「少なくないよ、ちゃんと数えて入れたもん」
「嘘つけっ!」
✥✥✥✥✥
この雅之の、多い少ないにも、日頃から細心の注意を払わなければならなかった。
夫の好きな料理の時には、目でみてわかるほどに、家族と差をつけて、てんこ盛りにしなければ不機嫌になったし、機嫌の悪くない時には、自ら立って子供の側に行き、ひとりひとりお皿から盛られたおかずを取って自分のお皿に入れるのだ。
食べざかり、遺伝もあるだろうけど、それでなくとも小柄な子供達に、なんとか食べさせたいと、それぞれのお皿にきちんと盛って、どのくらい食べたか見ておきたいのに、それを父親が、ひとりひとり側に立って、お皿から唐揚げを取り上げる姿に、腹が立つより情けない気持ちになった。
「そんなことせんでくれん」
意見すると、反抗したと捉えられ、いきなり怒り出す雅之だったが、この時は、唐揚げがてんこ盛りになった自分のお皿を見てニヤニヤしながら、満足気に自分の席についたのだった。
子供達のお皿には、サラダと唐揚げがひとつだけ。
子供達も呆気にとられて夫を見たが、ビールを飲みながら、嬉しそうに唐揚げを頬張る父親に、子供達も何も言えなくなる変な雰囲気が漂った。
夫には、子供達のお皿の中身が見えてないのだろうか。
自分のお皿だけが唐揚げでてんこ盛りになっているのをこの人は何にも感じてないのだろうか。
「いいよ、お母さんのあげるから、しっかり食べよ」
そうして、3つあったのを、男の子3人にひとつずつ足してあげた。
私ひとりなら、冷蔵庫の中の余りものや漬け物なんかでご飯を食べればいい。
でも、育ち盛りの子供は違う。ちゃんと食べてもらいたい。
涼子は実家にいる時、兄には余分におかずが出される時があるのが嫌だった。それが和牛の肉だったり、雲丹の板だったり。
美味しそうに食べる兄を尻目に、羨ましくて悔しそうにして涼子が唇を噛む姿を、実母は「ふふん」と楽しんでいたのだ。
子供達には同じ物を同じように食べてもらいたい。
家族は同じ物を食べ、そして、調理した人や農家の人、魚や動物に感謝して食す。
戦争で食べられない人がいること、この食事が普通ではないことに感謝すること。
それはミッションスクールや教会で教えられたこと。
また、戦後食べられなくて苦労した父から、何度も繰り返し、聞かされていたこと。
そんな食育をしたかったのに、そんな教えどころではない、夫との食事は、絶えず緊張が走り、どこで爆発するか、何が原因で怒鳴り出すか、聞かれたことにすぐに答えられるように、いつも臨戦態勢でいなければならなかった。
それが普通ではないことなのに、誰に相談しようとも、「疲れてたんじゃない?」「たまにあるよ、うちも」
こんなことがどこの家でもある日常の出来事で、それをみんな我慢や辛抱して暮らしていて、涼子だけが、不満をたらたら言っているように聞こえる。
(ほんとにそうだろうか)
夫、雅之の家の中のこの姿を、いったい誰が知っているというのだろう。
雅之は会社でも、近所でも、ママ友の間でもとても評判が良かった。
穏やかで、にこにこ笑って、口数が少なく、頭が低い、子煩悩な父親。
確かにそういうところもあった。
でも、何かが違う。
✥✥✥✥✥
「嘘つけっ!だったらあさりの殻を出して数えてみろやっ!」
こんなことで、怒りに任せて小さな子供達の前で、怒鳴り散らすのは何だろうか。
考えている暇はない。
雅之は、自分のお椀からあさりの殻をひとつひとつ箸でつまんで、テーブルの上に並べはじめた。
(いやちゃんと数えて入れたはず)
急に恐怖心が襲ってきた。
そして今から食べようと、しつけ箸を持った長男のお椀を取り上げて、あさりの殻を取り出し並べはじめた。
「いち、にぃ、さん、しぃ・・・ほうれみろやっ、俺のが7つで、こっちが8つやないかあっ!ひとつ少ないやないかっ!」
そう怒鳴ったかと思うと、パーンと箸をテーブルに叩きつけて立ち上がり、リビングの扉をバーンと閉めて出て行き、廊下の向こうの部屋の戸をバンッといわせて閉じこもった。
(何て酒癖が悪いんだろう)
そう思いながらふと見ると、まだビールの缶は開いていなかった。
凍りついた食卓。
なんとか子供達が楽しく食べられるようにしなくては。
そんな思いで、咄嗟に涼子は笑うのだ。
「なんなんよねーっお父さん」
そう、笑って言うと、幼い子供達もつられて笑う。
「変よねーっ」
「食べよ食べよ」
何事もなかったように食べはじめる子供達を見て、安堵するのだった。
雅之のあさりのお味噌汁が入ったお椀の底に、貝殻から外れた身が落ちていた。
あさりのお味噌汁如きで、こんなになるとは・・・
この夜のことを、涼子はお姑に相談した。
「すごく怒って怒鳴り散らしたんだけど、何なんですかねえ」
「そりゃ、怒らせる涼子さんが悪いわ、ちゃんと数えて入れん方が悪い」
「・・・・・」
いつものことだが、毎回、悪いのは涼子で、悪くないのは夫、雅之になった。
「きっと仕事で疲れてるのよぉーもう少し思いやりを持ってあげてちょうだいよ」
思いやりがないと一刀両断。
疲れているのは私も同じはずだ。
「専業主婦で子供のことだけしてればいいんだから、涼子さんはほんとに幸せよ」
お姑は言った。
この生活を維持するために、私は毎日、夫の嫌みや暴言を聞き続けなければならないのだろうか。
✥✥✥✥✥
夫、雅之の後を追い、足を踏み入れた高い高い塔。
見上げた遠く向こうに僅かな光を見つけて、雅之と見えた黒い影を追いながら歩きはじめた螺旋階段は、歩いても歩いても、追いつけず、昇っているはずの階段が降っているように思えた。
そうして歩いていると、ぱあっと明るい光が目の前に広がった。
見ると、螺旋階段を昇る涼子の目の前の小さな窓から眩い光が差し込んできたのだ。
涼子は思わず覗きこんだ。
なんと言って表現すればいいか、わからない。
ただ、そこから見える風景に涼子はなんとも言えない幸せな気持ちに包まれた。
(ここからでも、こんな美しい風景に出会えるなら、この高い塔を昇って、あの頂上に着いたなら、もっと素晴らしい景色を見ることができるかも知れない)
覗きこんでよく見上げると、自分が昇る塔の上の辺りに、細い糸のようなものが浮かんでは消えた。
(あれは何だろう)
早い雲の流れにかき消されるように、糸は見えなくなった。
一瞬見えた小さな窓からの風景がまるで麻薬のように涼子を怪しい幸福感で包むのだった。