「すぐ来てください」
入院中の母の病院からスマホに電話があった時にはすでに新幹線で家に帰り、次の日、仕事をしていた時だった。
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前日、父に
「もう1日泊まろうか?」
と聞いたが、容態が持ち直したために、 「ええわい、落ちついたから、また連絡する」
と言われて帰ってきたのだ。
後ろ髪を引かれなかったわけではない。
どうしようかとちょっと考えなかったわけでもない。
それは、父の姿がとても疲れていたように見えたからだ。
何回か入院中の母を見舞った。
救急搬送された時にも駆け付けることをしなかった涼子だったが、4人の子供達は実家に帰る度に、ごちそうを作ってもらったり、デパートに行って好きなものを買ってもらったりして、母親が大好きだった。
子供達を連れて行くのが1番喜ぶだろう。
見舞っても、酸素マスクをつけて寝ているだけ。
その姿を見て、子供達が涙をぬぐった。
(お母さん良かったね、泣いてくれる人がいて)
心底そう感じた。
時々薄目を開いた母親が、4人の子供達に気が付くと、少し微笑んだような気がした。
「おばあちゃん!大丈夫?」
「大丈夫?」
手を出すと、娘がぎゅっと握り返した。
昔は、ひとつ屋根の下で家族が、楽しい事も苦しい事も、分かち合いながら暮らしていた。
そんな中で年老いた祖父母が病に倒れ息を引き取る瞬間を目の当たりにして、その死を見届けることができたが、現代はそれが薄らいでいるという。
最期を見届けるのは、その人にとって、生とは何か、生きることとは何か、命の尊さを問うことになるというのだが、現代は、病院で亡くなることが多く、バラバラに過ごす家族は、息を引き取って棺桶に寝かされているご遺体を見て、はじめて亡くなったことを知ることになる。
現代に、残酷な殺傷事件が多いのは、この行程が省かれてしまったからだと長く納棺師をしていた男性が言う。
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涼子が15才の時に、たったひとりの祖母が亡くなった。
くも膜下出血、62才だった。
母方の祖母は、1年に何度と無く、大きな荷物を抱えて、家に遊びに来てくれた。
田舎の小さな家に住み、小さな畑を耕して、そこでできた玉ねぎやじゃがいもをたくさん抱えてきた。
時々、小包で送ってきてくれた中に、チューインガムやチョコレートなど、大好きなお菓子が、兄と私の2人分入っていて、祖母から送られてきた小包みを開ける時にはワクワクしたものだ。
小学2年生の時、母と兄と私の3人で、広島で電気メーカーの寮母をやっていた祖母のところに遊びに行ったことを思い出した。
母の郷里の高校が高校野球の全国大会に出場していて、商店街のウィンドウで放映されていたのを、時折、立ち止まりながら見ていたからきっと夏休みだったんだと思う。
今では聞かない鈍行と呼ばれる列車の長旅。
広島では、G7サミットの会場になった宮島を訪れた。
家族で出かけることがほとんど無かった家で、父の出張中に祖母が呼んでくれたのではないかという気がする。
海に浮かぶ大きな朱塗りの鳥居、それに、海の上に浮かんでいる回廊が沈みはしないかと不思議に感じた記憶がある。
祖母はいつも涼子のことを気にかけていた。
1年に何回も来るわけでは無いのに、兄と涼子に対する母の態度があまりに違うので、祖母は心配していたのだろう。
母は、自分には贅沢だったが、涼子には必要最低限のものさえも買わなかった。
擦り切れて足の裏が薄くなっている白い靴下3足と、小さくなってお腹が出るパジャマ。
祖母が来てくれた後は、洋服や下着が新しくなって嬉しかった。きっと「涼子に買ってやりなさい」とお金を置いてってくれたんだと思う。
育ち盛りなのに、洋服は兄のお下がり。
「色黒やけ、いいんよ」
母はそう言って笑った。
決して貧乏じゃないのに、いつも着ている物が、近所の真理ちゃんに見劣りして嫌だった。
ぶかぶかの洋服を着せられたり、小さな服を着せられたり、それが未だにトラウマになって、自分のサイズや寸法が違うと、仕立て直すようになった。
時々、訪ねてくる祖母が、そんな涼子を見てお金を置いてってくれたんだと思う。
生まれたばかりの涼子を抱っこしている写真は祖母との1枚だけ。
母との写真はなかった。
祖母が数日遊びに来て帰って行った夏だった。
その時、
「せっちゃん何で、涼子のことを可愛がってあげんの?」
と尋ねた時、母はそっぽを向いたまま返事をしなかった。
母を見つめる祖母。
その時間が長く長く感じられた。
「可愛がってやらんとね」
祖母はそうつぶやくように言った。
そして、その数日後にくも膜下出血で亡くなった。
昭和時代は跡取りの長男が大切にされた時代でもある。
社会ではまだまだ、女性は男性を立てて、お茶くみをしてればいいと言う、男尊女卑の風潮が根強い時代でもあった。
家のために女は働き、『我慢』や『辛抱』が女性の美徳と言われた時代だった。
たったひとりの祖母が亡くなった時のことが、今でも鮮明に蘇る。
大好きな、たったひとりの味方だった祖母。
ずっとずっと泣いていたように思う。
底知れぬ喪失感と、祖母を失ったことで、後ろ盾みたいなものが無くなった不安が涼子を襲った。
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母が運ばれた救急病院の看護師から
「これからの治療計画も話しをしたほうがいいと思うので、1度病院に来て、主治医と相談してもらいたいのですが・・・」
「帰れませんね」
冷徹に返答した。
「帰れないんですか?」
電話の看護師はびっくりした。
実の母親が救急搬送されたというのに、2人いるはずの子供がどちらも顔を見せないとは、どんな薄情な子供だろう、病院のスタッフはきっとそう感じただろう。
「いま、主治医に変わります」
「もしもし?」
「はい」
「長女さんでですか?」
「はいそうです」
「お母さんですけどね、もう、こちらの病院でできることがないので、病院を移ってもらうことになりますが、よろしいですか」
「じゃあそうしてください」
「お母さんの病状ですが、あまり良くありませんよ、これ以上良くなることはありません、何の病気がわかってますか?」
(何の病気か・・・)
主治医は電話の向こうで、少し怒ったような強い口調で言った。