あすみとモラハラ夫との卒婚生活

モラハラ夫  卒婚生活 カサンドラ

小説 螺旋階段 Ⅷ


もし、あの時に引き止める手を振り払っていたとしたら・・・

なんだかよくわからない密室の中で漂う不穏な空気の違和感に気づくことができたなら・・・

涼子は長い結婚生活の間でことある毎に夫と生活を始めた『あの時』に行き着いた。

それでも子供が自立するまでは夫からどんな理不尽なことを言われようと、どんな暴言を吐かれようと、専業主婦で経済力のない涼子は逃げることなど毛頭考えも及ばなかった。

昭和から平成という時代背景もあり、離婚という概念すら持ちあわせていなかったし、それが躾と疑わなかった厳しい母親の元で生活していた教訓が、どんな理不尽もきっとかわしていけるという使命感だけで暮らしていた。

当時、離婚は出戻りみたいに言われて失敗と見なされた感があり、口にするのはタブーのような時代だったからだ。

 

 

✥✥✥✥✥

 

丸い食卓に合わせて買ったピンクのテーブルクロスをふわっと被せて、ハンドドリップで入れた薫高いコーヒーと、白のオーバルプレートに、スクランブルエッグとトースト、サラダと季節の果実も添えて、雅之と未来を語りながら楽しく朝食をとることを想像していた涼子だったが、そんな理想や思いは、新婚旅行から帰った日からことごとく粉砕される。

丸テーブルは、隣の部屋で胡座をかいてテレビを見ながら食べる夫の、お皿置き場と化し、アイロンがかかっていたテーブルクロスは皺だらけになった。

(1番めを出したら、次はこれ、その次はこれ・・・)

と夫の「はい、次」という号令により、温かいものは温かいうちに、お酒の量と見計らいながら準備する、まるで料理屋の仲居さんのようだった。

途中で、料理について、「この肉はどこの肉か」「100グラムいくらで買ってるんか」と質問されてもすぐに答えられるように、予め、質問事項を頭の中で整理した。

答えられなければ、いつ、また、あの空港の出来事のように突然、激高するかわからない。

夫が食べ終わるまでひとときも気を抜けなかった。

 

社宅で知りあった奥さん達は、休みになると出かけて行く姿を窓から見ることができたが、楽しそうに笑う姿に涼子は落ち込むのだった。

(何でだろう)

(毎日がつまらない)

 

実家に電話すると、決まって母親が出て、人の話しを遮り、

「離婚して帰って来なさい!」

とけたたましく言うだけ。

それは、実家に帰ってまた、女帝のような母親に支配され、働いたお金を搾取され続ける日がはじまるという事。

 

お姑に相談すれば、

「涼子さんの努力不足よ」

「もう少し雅之に思いやりを持ってあげてちょうだいよ」

と言われるだけ。

夫の急に不機嫌になってみたり、なんてことないことに急に怒ったりする様子を親友に話したところで、

「誰でもあるけどね」

と終わった。

確かに誰にでもあること。

なんか、上手く行かなくて落ち込んだり、誰とも話したくないことなんて、誰にでもある。

でも、夫は、そういうのとは、ちょっと違うと思ったが、誰にもわかってもらえなかった。

 

母の返事はわかっていたが、何度か相談するうちに、耳を傾けてくれるのではないかという淡い期待に、また電話してみたのだ。

「もしもしー」

思いがけなく、電話の向こうに父が出た。

そうだ、何で今まで気付かなかったのだろう。

お見合いの時に、雅之のことを強くすすめてくれたのは、他でもない、父だった。

父なら、男同士、夫のなんとも言えない食事風景を伝えてみたら、何か、いいアドバイスをくれるかも知れない。

「あのさー」

私の声にすぐに気づいて

「ああ、ああ、元気かね」

母親のように、人が話しているのに、遮ったりしない。

 

父親に、田舎で買い物ひとつとっても大変なことや、夫が晩酌をしている間、ずっと座れずに、一品一品持っていかないといけないことで、疲れたと相談してみた。

すると父は電話の向こうで笑った。

「男は最初、理想みたいなんがあってな、そうやって酒飲みたかったんやろ、心配せんでも、子供が生まれりゃあ、そうやってご飯なんかたべられんくなる。今のうちだけやけ、心配せんでええわ」

「褒めときゃいいんよ、男は単純やからな」

 

(男の理想かぁ)

涼子は父親が明るく話してくれたことで、少し安心したのだった。

 

実家の両親に大事なことは『辛抱』と『我慢』と教えられ、実母に搾取され続けた生活に、年の離れた地道なサラリーマンの夫との結婚は、まるでご褒美かのように思えた涼子。

それが、最初から、雅之の顔色を窺うような生活。

(いや、待て、結婚とはそんなものなのかも知れない)

幼い頃から、母親に交友関係を厳しく監視されていた涼子は、みんなが経験するような同世代の男の子との人間関係を構築するのが下手だった。

周りにもそんな同級生は多かった。

時代かも知れないし、そもそも、美人でもないし、ただ笑ってよく喋る女の子なんて、今の時代ならわからないでもないが、ミステリアスで大人しい女性が好まれたこの時代は男の子がよって来なかったのである。

 

実家ではテレビを見る時間は6時15分から45分までの30分。

歌番組はクラッシック音楽以外禁止、テレビはたいていNHKか、教育テレビしかついてなかったので、兄や涼子には、流行っている歌の情報さえ、入って来なかったのだ。

教室では友達同士が、昨夜見たドラマや歌番組の話しをしたけど、遠巻きにわかってるふうにニコニコ笑って頷くだけ。

そのうち、みんなで歌いはじめても、歌詞がわからず、涼子だけ歌えなかった。何かカッコ悪かったし、ノリの悪い子として、仲間外れにされるんじゃなかろうかと、内心びくびくしていた。

 

『泳げ鯛焼きくん』が流行った頃、その歌が子供番組から出たメガヒットになっていたらしいが、涼子は知らなかったのだ。

(海の中に鯛焼き?何のこと?)

よく考えて、調べてから聞けば良かったのに、同級生の女の子に、

「泳げ鯛焼きくんって何?」

と聞いたところで、

「えええー!ちょっとぉ」

どちらかと言うと陰キャラのその同級生さえ、びっくりして、呆れて笑った顔が今でも目に浮かぶ。

 

この日、家に帰って母親に聞いた記憶がある。

「ねえねえ、泳げ鯛焼きくんって何?」

「あぁ、歌やね、そんな歌があるんて」

子供が学校に行っている時にはワイドショー的なものを見ていただろうから、流行っていること知っていただろうけど、いらぬ情報は遮断する親。泳げ鯛焼きくんなんて歌はクラッシックでもないし、それ以上は言わなかった。

たぶん涼子はクラスでの立ち位置を探っていたんだろうと思う。

兄みたいに勉強が得意で一目置かれる存在ではなかったし、スポーツが得意なわけでもない。

ちょっとおませな女子みたいに、いろんな情報に詳しく、大人っぽい子でもない。

友達を呼ぶことを極端に嫌ったために、友達も自由に呼べず、持たされているおこづかいも少ないために、友達に誘われても断ることが多かった涼子。

家族で旅行やお出かけなどもほとんど無く、軟禁でもされてるような子供時代。

短大生になっても門限は日没。

 

それに比べると、雅之との結婚は、数倍自由に思えた。そう勘違いしてしまったのだ。

「子供ができれば、変わるよ、変わらんとおれんくなる」

父のその説得力のある言葉に少し励まされるようだった。

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