あすみとモラハラ夫との卒婚生活

モラハラ夫  卒婚生活 カサンドラ

籍を抜いた兄 前編


お風呂に入る時にプラスチックバスケットに必要な入浴用品を入れて入浴時にそれぞれ持ってってもらおうと、綺麗にした洗面所の戸棚を整理していた。

ここには、タオルの類いや、薬箱、さッとしまえるようにバッグを入れる空きスペースを作っていたり、棚のひとつにはお料理のレシピをファイリングしたものや、後から目を通そうと一時的に置いておく郵便物等々。

その中に、ファイルの帯に父の名前の物があった。

母の葬儀に関するものや、香典返しの目録や住所録、年金に関する書類・・・・
これらのものも、終わったこと。思い出と同じ扱いで、処分しなくては、残されたものが始末に困るだけ・・・

そう思いながらパラパラめくっていると、1枚の戸籍謄本のコピーが出てきた。

父がこちらのマンションを借りる時に必要だったのだろう。

そこには、兄の『除籍』の文字が刻まれていた。
『平成25年・・・・・除籍』


この謄本は私 自らが地元の市役所に行ってとってきたものだ。
400円を払って窓口でこれを差し出された時には、『除籍』の文字に少なからず動揺した。

「除籍・・・?」
「そうですね、除籍されたんですかね」

妹だと言うのに、兄が籍を抜いたことも知らないなどと、窓口の女性に変な詮索をされたくなかったので、お金を払うと、ささっとふたつ折りにして持っていたバッグに入れ、その場を立ち去った。

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兄は佐藤家の希望の星だった。
母が扱いやすいように大人しく、辞典ばかり見ているような子供で、「外で遊ぼ」と誘われてもすぐに帰ってきて本を広げていた。

「この子は賢くなるわあ」
そう、母は期待した。


近くのお寺で開かれる子供会には町内の子供達が集まる。
春の進級時、クリスマス会。遠足などの催しや、当時男の子は野球、女の子はドッジボールと、チームを編成して、それぞれの地区が集まり学校代表として市子連まで出場した。
当時は子供がたくさんで、町内でそれぞれ2チームできるほどだった。

そんな風だから、親も熱心。夕方の練習時には役員のお母さんのみならず、ふかしいもの差し入れや飲みものなど、保護者がとても協力的で、たぶんそれが一見してお金にならない無駄なことに母は思ったのだろうし、自分の子供の学年が上がった時に
こんな無駄な時間を押し付けられてはかなわないと思ったのか積極的に参加させなかった。


何回か誘われるまま兄も参加したことはあったが、もともと外で体を動かすことが好きではない兄は、あまり行かなくなった。

そんな時に、子供同士が交わることは大切なことと母親が教えて、積極的に一緒に行くなどしていたら、また少し違っていたかも知れない。
母親自身が、日頃から
「友だちは敵よ、友だちはライバルよ」
などと言い含めて、母親の気に入らない友達のことを悪くいい、付き合う友だちを厳しく管理していたのを、兄も、また私も、母親の気に入らなさそうなことはやらないでおこうと忖度していたように思う。


町内のみんなが野球の練習で明け暮れている間、
「みんなが遊んでいるうちに勉強するのよ!」
母はそういい、また兄もそれに答えた。


全て母親の思い通りになる筈だった。
言うことを聞かない遊び放題の娘の私とは違って、勉強に励み、難関国立大へと進み、好きな考古学を極めて普通に生きて行くのだと思っていた。



ところが人生 計画したようには行かないものだ。
第一志望の大学は不合格だった。
母の落ち込みようといったらなかった。それはいつも一緒に勉強していた2人の友達が東京の有名私立大学に合格したからだ。
「受けさせれば良かった・・・ああ悔しい!」

そんな情報は2人が合格するまで兄は一切知らなかったようだ。それもそのはず、小さい頃から「友達は敵、友達はライバルよ」と母が教えてきたために一切の受験の話をしなかったのだろう。

塾も行かなかったから全く情報が入らない中で、母親が学校の先生の話だけで決めたこと。



そんなことを後悔しても始まらない。
そもそも、滑り止めの大学が考古学でなく、全く興味のない法学部を受けたところから、歯車が狂いはじめたのだ。

私は滑り止めの私立大学を聞いたときに「はあ?」「何で?」と思ったものだ。
でも、私のことは門外漢だ。聞く耳などもつ筈がない。



母は都合の悪いことは全て、父親に言わせる。父も母親に言いくるめられて意のままに操られていた。
あのときも・・・

大学に願書を出す前のこと。
和室の炬燵にいるときに、隣の台所から2人してやってきて、兄の目の前に座り、
「第一志望の国立がもし駄目だったら、○○大学の法学部に行くんぞ うちはお金がないから浪人はさせん、いいな」

私は、母親の顔をじっと見た。
母親は私とは目を合わせない。(そうそう 教えた通りに言って)とばかりにずっと目を伏せて、いかにもそれを父が決めた風に装おっているが、それは違う。
都会の大学にやったら、自分の自由になるお金が少なくなるからだ。行ったり来たり、交通費を使ったり、いらない出費が増える・・・自分に贅沢な母は、兄の意志が今までのように自分の思い通りになると思っていたのだろう。


第一志望の国立大が不合格になった兄は浪人せずに母親の言う通りに、全く興味のない法学の勉強をしに同じエリアの大学に通い始めた。



そして3年生になった時に大学から1本の電話がかかってきた。
「大学に来てません。出席日数が足りないため、留年になります」


母親は青ざめていた。








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