あすみとモラハラ夫との卒婚生活

モラハラ夫  卒婚生活 カサンドラ

モラハラ人間は周囲の人が自分に忠誠を尽くしお金を差し出すのが当たり前と思っている


亡くなった母は、買い物が好きだった。

学校から帰ると百貨店の外商担当のいつもの女の人と、たまには男性も来ていて、大抵、宝石類が広げられていた。
母は本当に宝石が好きだったんだと思う。

日頃から長い爪にピンク色のマニキュアを塗った薬指に大きな色石の指輪をはめていて、時々その指先をかざしては、うっとりと眺めていた。

ちょっと母のご機嫌を損ねるとげんこつでよく叩かれたが、私はその指にどんな指輪がはめられていたか、気になったものだ。大きなトパーズをしていた時が1番痛かった。私にとって色石の指輪は凶器でしかなかった。


私には下着から靴下の類いでさえ、ほとんど買ってもらえなかったのに、母は自分にはとても贅沢だった。
父が貧乏な家庭で育ったために、不便で不自由な暮らしに慣れていて、いや、むしろ、そんな不便な暮らしを楽しんでいるようで、真夏のうだるような暑い日でも、エアコンを嫌い、あちこち窓を開け広げて、「暑い暑い」と団扇であおぎ、涼をとっているのが、なんだか楽しそうにさえみえた。


兄も本以外は欲しがらず、洋服や何か「買って買って」というのは私ぐらい。
躾という常套句で、質素な生活を強いて、母は自分の好きなようにお金を使っていたんだと思う。

そんな母が特に出し渋っていたのが、病院にかかる費用と交通費。
「お腹が痛い」と言ったら、漬けていた梅酒のシロップ漬けの梅を取り出して私に食べさせたし、熱がでたら、置き薬の頓服薬を飲み、氷で冷やしたタオルをひたいに当てて熱を冷ました。

本人もあまり病院が好きではなかったんだと思うが、私の歯が折れた時くらいは病院に連れて行くのが、普通の人の感覚だろう。


自分が立てなくなった時でさえも↓↓↓
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入院はせずに、家にいたようだ。


もうひとつは交通費。
私は、幼稚園からOLとして勤務した会社まで、すべて徒歩で通学、通勤した。
短大は結構、遠かったが、徒歩。
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辺鄙なところを通らなくてはならなかったので、バス代をくれると思ったが、「歩いて行きなさい」

母の感覚の中には、バスや電車にお金を払うというのが特にもったいないと思っていたようだ。

極めつけが、お盆休みのお墓参り。
自宅を朝6時頃出発。父の壊れそうな軽自動車の後ろの座席に乗り込む。窮屈極まりない。

今はもうお目にかかれないと思うが、後ろの座席の窓が三角形になっていて、上下に開く窓と違って前後にしか開かない小さな窓。わかるだろうか。

エアコンのついてない軽自動車は運転席と助手席の窓を全開にしたところで、風は吹いてこない。
仕方ないから、後ろについている前後にしか開かない小さな窓を開けて、口をぴったりとつけて、酸素を取り込もうとするのだが、車体の低い軽自動車は、信号待ちで止まる度に、道路から舞いあがる生ぬるい風とともに粉塵を吸い込み、余計に気持ち悪くなるのだった。
「喉がかわいた」
というと、決まって
「唾ためて飲んどきなさい」
と、2人がいう。

だいたい、高速を使って行ったらいいのに、母は決して高速で行くとは言わなかった。高速代を渋っているのだ。
しかも、そんな車の後ろに押し込められて水も飲まずに片道約4時間

お墓のある田舎に到着、車を降りるとふらふらになった。

もっと小さい時には祖母の姉の家に泊まったりしていたのに、いつからか日帰りでお墓参りに行くようになり、そんな風だから、毎回拷問でも受けてるようだった。


夫との結婚が決まってから、夫の車で同じようにお墓参りに出かけたが、高速を使ったら2時間もかからずにエアコンももちろんついていて快適だった。

高速代もそんなに高くはないと思うのに、宝石や着物を買うお金があるんだったら、出し渋るところでもないのにと当時も頭の中は疑問だらけだった。


交通費を出すのが嫌な母が、結婚して社宅を見に来たのと、マンションに特注のタンスを自慢しにやってきた時と、2回やってきたことがあるが、なんと、小川のお姑さんが行き帰りの母の新幹線代を負担したとずっと後からお姑さんに聞いて、びっくりした。
ご招待待遇じゃないと
「わざわざお金まで出して行かない」
と言ったそうだ。

何で使用人(私)のとこにわざわざ交通費を使って行かなきゃならないの という感じか。

産後のお手伝いも来るわけない。私は娘じゃなくてただの使用人だったということだ。


そんな母が「お金があるのよ」と呟きだしたのは、兄と連絡がとれなくなってからだった。










 

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