あの時から30年の月日が過ぎた。
今、私はパンドラの箱を開けようとしている。
子供の頃から辛抱すること、不平不満を言わないことを強いられてきた私が、長い長い年月を経ても尚、私の心臓に突き刺さったままの鋭利な刃物を、母が亡くなった今なら、血が流れても手当てができそうな気がするから今パンドラの箱を開けてみる。
心のカタルシス、魂のデトックス
表現に不適切な部分があるかも知れませんがあえて思い出してそのまま綴ろうと思っています。
『ピンポーン』とチャイムがなった。「は~い」と扉についている覗き穴から、黒縁の四角い眼鏡をかけた大原さんが立っているのが見えた。ここのところ、お茶することもなく、(具合でも悪いのかな)と思っていたところ「あ、どうぞ~」と扉を開けると、どいてと言わんばかりに、つかつかと靴の向きも変えずに、部屋に入ってきて、いつものテーブルの前に座った。
明らかに様子が変だった。
「お茶でも・・・」と言うと
「お茶なんかいらないから、ここに座って」
と彼女は言った。
テーブルにつくと、彼女はきちんと組んだ手の指の先まで揃えてこう言った。
「小川さん、あなた、あの程度の嫁入り道具で、よく恥ずかしくないわね」
あまりに唐突過ぎて何の話題かよくわからなかった。何度もまばたきした。
「よそのお宅はみな立派な嫁入り道具が入っているのに・・・だいたい結納もらったら、その3倍用意して持っていくのが常識なのに、何?
東棟の西原さんところにお邪魔したら、なんか、家財道具が、ラタンみたいな安物ばかりで、後から聞いたら、結婚を親に反対されて、駆け落ちしたっていうじゃない、ああ、だからかって思ったのよ
じゃあ小川さんところは何でこんなに少ないの?
出戻りじゃああるまいし、ふた親揃ってこの揃えでは、ご主人さん、さぞかし、会社で肩身の狭い思いをしてらっしゃることだと思うよ」
この前まで、仲良くお茶を飲みながらお喋りしていたのに、何で急にこんなことをいい出したんだろうかと思って聞いてみた。
「なんか、あったの?」
飄々とした態度に一瞬 言葉に詰まったようだが不満げに口を尖らせて尚も続けた。
「こんな山の中を平気で歩くなんて・・・うちの母が言ってたけど、『その子、お嬢様でも何でもないよ、お嬢様がそんなひとりで歩いたりするもんですか、何が出てくるかわからないのに』ってそう言ってたわ、偽 お嬢様じゃない!」
私は自分からお嬢様なんて言った覚えは一回もない。私は自分のことは自分でよくわかっていた。
実家では娘という扱いではなく、使用人みたいな扱いだったことも。あれだけ働いて家にお金を入れてきたのに、父方の妹に似た私のことが大嫌いで、できるだけお金をケチってやりたいと母が思っていたことも。
わかっていたから家具が少なくても、不満も言わずに何でもいいからこの家から出て優しい夫と新しい生活をしたいと、ただそれだけを願っていた。
「主人が、会社でそれを言ってるの?」
「それは知らないけど社宅のに住んでる人はみんなそう思ってるわよ」
私は今度3月に結婚する慶子さんのことを伝えてみた。
教会で出会った彼女 - あすみとモラハラ夫との卒婚生活
上級生達の卒業 - あすみとモラハラ夫との卒婚生活
教会で出会った仲間達のいま - あすみとモラハラ夫との卒婚生活
「とても上品で素敵な人なの。お父さんは社長さんだし、お母さんもお茶やお花をされてる人だから、すごいお嫁入りの用意をするんだろうなあって聞いたら・・・」
『私は大学も私立でよそに出してもらったし、留学もさせてもらって、その上また私立の大学に編入して、1年も働かずに結婚することになったから、母には「何にもいらないから、何もしなくていいから」ってお願いしたの。「カラーボックスでも2人で買ってくるから」って
だって結婚って自立した2人が今から協力しあって生活するってものでしょう?』
憧れの慶子さんの例を出して話すと
「その人結納金もらってないんでしょ?」
「それに、その人は私立大学も外に出してもらって、留学もしてるんでしょ?小川さん、ずっと地元から出たことないじゃない、地元の短大で、留学したわけでもないし、結納金ちゃんともらってるじゃない」
「・・・・・・」
「そういうの何ていうか知ってる?」
「・・・・・・」
「結納金どろぼうっていうのよ」
結納金どろぼうか・・・
安物でいいから、人並みのことをしてくれれば、こんなことを言われなくても良かったのに・・・
いつも毒母には落胆させられるばかりだ。
「小川さん、着物の揃えはないの?」
「いや、あると思うけど・・・」
「喪服とかどうしてるの?うちではいづれお嫁にいくからって、1番に喪服を誂えたのよ、冬は袷、夏は絽。いいものじゃないと蛍光灯のしたで見たら、安物は、てかてか光って品物の良し悪しがすぐにわかるの」
お舅に小さな癌が見つかって、それを母に言ったら、「ちっ!」
と舌打ちして
「喪服を作らんといけんじゃあない結納金少ないのに」
と怒っていたから、たぶん喪服もあるはず・・・
2人しかいないのに、自分の知ってる嫁入り支度のことを次から次と私に説いた。
「え?一体あなたのお母さんは親族のお葬式の時にはどうしてたのよ」
そういえば、祖母がくも膜下出血で倒れた時に、急いでかけつけた後そのまま3日後に亡くなってしまった。
その時に3人の弟のお嫁さんたちが、喪服を持参してきたことを、ひどく憤慨して
「私はお母さんが死ぬなんて思ってないから喪服なんか最初から持って来んかった!」
と喚いて、結局、そこで貸してもらったと聞いた。
「あの時は・・・たぶん借りたんだと思う・・」
というと
「えええ!」
と手で口を押さえて呆れた顔をした。
「そういえば、どこかの部落で冠婚葬祭の時には衣装を貸し借りするって聞いたことがあるわ」
「部落の人?」
その言葉を耳にした時にはさすがに鳥肌がたつようだった。
『部落』という言葉は小中学校の時に、学校の授業で習った覚えがある。
住んでいる地域だけで就職や結婚がだめになってしまう時代の連鎖、見えない差別で苦しめられている人が多くいると聞く。
ただの『アホ』や『バカ』などの言葉とは違う、人を貶める言葉にこれほど、効果的な言葉が他にあるだろうか。
私の心臓にぐさりと刃が刺さり、突き付けられたまま捩られた感覚だった。
口調はすごく丁寧なのに、どのような語句を使えば一番効果的に私を貶めることができるか、数日間、吟味して練られたような言葉の羅列にひどく傷ついた。