「おばあちゃんが、救急車で運ばれたよ」
子供達がとても動揺した。
「えええ!」
運ばれて応急手当をしたら少し持ち直したと父から聞いたが、子供達はいてもたってもいられない様子だった。
「帰ろうか?」
私は病気の母よりも、母のことでひどく落胆した父が心配になり、そう言った。
「いや、ええわい、ちょっと落ちついたからな」
仕事で船に乗っていた父は、自分の身の周りのことは全部できる。
なかでも洗濯物は得意で、母が生きていた時から洗濯機をまわし、物干し竿に干し、アイロンをかけるまですべて父がやっていた。
茶碗も洗う。
結婚して家をでるまでは小学6年生の時からそれはずっと私の当番だった。
高いお器ばかりで、お茶碗を欠けさせると「お小遣いから引くよ!」と言われ、苦痛だった
できないのは料理くらい。
野菜炒めくらいはできるが、母の手料理が好きだった父。
実家ではお出かけすることが数えるくらいしかなかったのもあり、外食は数えて5本の指でおさまるくらいだ。
母がお金を握って外食にお金を遣いたくなかったんだと思うが、それより何より、父は母の手料理が本当に美味しかったんだと思う。
品数もいらない、出されたものを
「うまいなあ」
と満足そうに食べる。
そんな父を見ていたから、母が入院してからご飯はどんなものを食べているんだろうかと心配になった。
お父さんが会社経営をしている慶子さんに頼んで、父にお総菜を届けるサービスを利用することにした。
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毎日届けられるお惣菜に「助かるわい」
と父はそう言ったが、きっと母のことが心配で味などわからなかっただろう。
自己中で、我が儘だったが、子供達が帰ると大喜びして、いつもたくさんのご馳走を作ってくれた母。
子供達のお見舞いが1番喜ぶかな・・・
そう思って、みんなで病院にいくと、酸素マスクをした母を見て、子供達が堪えきれずに涙をぬぐった。
(良かったね・・・お母さん)こんな親でもおばあちゃんと慕ってくれる孫がいて・・・
母のことは大嫌いだったが、子供達を可愛がってくれたことには、多少なりとも恩返ししなければと、私にできることは子供達を連れて行くくらいだった。
子供達がお見舞いに行くと、それまで息も絶え絶えだったのに、病院の先生もびっくりするくらい、持ち直して、それから1ヶ月あまり、普通にベッドに座って、普通にお喋りできるまでになり、孫ちゃんの力は奇跡も起こせるのだと思った。
病院食も完食できるようになったと聞いて、父も退院できるのではないかと少しばかり期待した。
「手ぐらい擦ってやったらどうだい」
「ああ」
父に言われて横たわる母の手の甲を擦った。
痩せて痩せて皺だらけになり、血管が浮き出て皮膚は黒く、いつもピンクのマニキュアを塗り、色石の大きな指輪をはめていた手とはまるで別人のよう。
父に言われて咄嗟に病人の看護をしている風に手の甲を擦ったが、私は気がついた。
こうして母の手にさわるのは、生まれてはじめてかも知れないと。
母と手をつないだことなどあっただろうか・・・
生まれた時も、それからいきなり10ヶ月となった赤ちゃんの私も、母に抱っこされた写真は1枚もない。
母は私の手を握ったことがあるんだろうか・・・
母の手を擦りながら、漠然とそんなことを考えていた。
それから1ヶ月くらいして母は息を引き取った。
手先が器用で、お料理も上手、センスもよくて、明るく華やかだったのに、亡くなったことを惜しむ人が、父と孫と・・・僅かな人たちだけ
愛玩子だった兄や、娘のように可愛がっていた林さんも別れを惜しみには来なかった。
あまりに寂しい臨終だった。