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パンドラの箱 彼女の放った猛毒 2


私達はそれから半年後に社宅を出て、JRの駅に近い分譲マンションに引っ越した。

新しい土地に移り住んで、お喋りするのは社宅の人以外いなかったが、大原さんのことは、夫とお姑さん以外は誰にも相談しなかった。

それは、情報通の大原さんが、社宅のどの人とつながっているかわからなかったからだ。
社宅の誰かに相談したら、どこの誰をきっかけに話に尾ひれがついて、大きなウェーブとなり、面白ろ可笑しく噂されてしまうかも知れない。



社宅の階段ですれちがえば、挨拶くらいはするが、極力、社宅の人との接触を避けて、暮らすようになった。

お茶に誘われても、誰が来るのかさりげなく尋ねて、大原さんがくるとわかれば、(ちょっと具合が悪いから)と誘いを断った。

時々、開いた窓から朗らかに笑う奥さん方の声が聞こえると、孤独感にさいなまれた。
が、ひとつ屋根の下で、長く毒母と暮らすうちに、変な忍耐力がついて、そんな中もやり過ごした。


毎日のように行き来していた彼女と、ある日からパッタリと話もしなくなったことで、周りのみんなが心配し始めた。

1階上に住んでいた高上さんも、またお隣さんも、
「なんか、急に大原さんとしゃべらなくなったけど、何かあったの?」と心配して話しかけてくれた。



けれども、罵詈雑言の数々を口にするのもおぞましく、「まあ、いろいろと・・・」とあやふやに、笑うだけにした。



あの後、思いっきり貶めておいて帰り際

「お邪魔したわね、大抵の親は、娘の幸せを願って自分のことは後回しにするものなのに、へんなお母さん!」
と捨てゼリフを吐いてサバサバした顔で帰っていった。


嫁入り道具が少ないだの、お嬢様じゃないだの、そんなのはなんとも思わなかったが、正直、これが1番傷ついた。

私は自分で(私は愛されていない)とうすうす気がついていた。
亡くなったおばあちゃんも、兄弟の扱いの違いに私のことをずっと心配してくれていたから。

でも、他人にズバリと指摘されたのはこの時がはじめてだったことから、(やっぱりそうなんだ・・・)って再認識させられたのだった。



あれから3日後にまた大原さんは『ピンポーン』とやってきた。出ない訳にも行かなかったので、扉を開けると、黒縁の四角い眼鏡の前で、両手をスリスリさせて、
「ごめ~ん!この間、ほんとにごめん!どうかしてたのよね~ちょっとお金のやりくりとかが大変だって・・・」

と、謝りに訪れたのだ。

私はその手のひらを返したような態度に、やっと腹が立ってきた。あれだけのことを言っておいて、「ごめ~ん!」はないだろう。

でも何も言い返すことはできなかった。
「はあ」
と、だけ言って扉を閉めたような気がする。



私は彼女に何かしたか、私の何が、彼女を怒らせたのか、あのあとからずっと考え眠れない日が続いた。

先に免許をとって車を運転しだした彼女に甘えて、お買い物に連れてってもらったりしたのがいけなかったのか・・・
お礼をあげてなかったからか・・・

いろいろ考えたが、いくら考えてもそこまでのことを言われる覚えはなかった。

(お金のやりくり)の言葉が引っかかっていた。

20代前半の夫婦が多い社宅で、30を過ぎたのは、うちと、もう一軒くらい。
部下や同僚が、新婚生活を見に次々とやってきて、お料理やお酒を振る舞うと、社交辞令だろうが、「ほんとに料理上手」「器がお店みたい」などと、社宅の中で男の人達がそう褒めたことや、ちょっとした暮らしの違いを感じて、他県からやってきたプライドの高い彼女は気に食わなかったのかも知れない。







 

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