季節はとどまることなく移りゆく。
上級生を送りだした教会は、若い人の人数が減って少し淋しくなったけど、残った私達で変わらずのいつもの教会行事に勤しんだ。
それに、すぐに夏休み、みんな帰ってきた時にはまた、みんなでキャンプに行く予定。
家では、兄がいよいよ大学受験の学年となり、私はうるさく言われなかったので、かえって気が楽だった。
兄は小さいころから、変な石を拾ってきては、虫眼鏡で見て辞典とにらめっこ。同い年の子とは遊び方も、付き合い方も違う人だった。
小学校の校庭で、センタープレスのきいたズボンのポケットに手を突っ込んだまま、ひとりふらふらして友達と遊んでない兄のことを心配して家に帰って母親に伝えたら
「あんたと違うの!」
と、家に帰ってきたら勉強もしないで友達と遊んでばかりと言いたいような、そんな私とは『違う』と母は怒ったが、私は子供会の行事にもあまり参加しない、町内の野球チームの練習にも行かない兄を、大丈夫かなと感じていた。
それは、周りの町内のおばさんやおじさん達が、日頃から「友達と仲良く遊べなきゃあいかん」と口にしていたからだ。
母は、兄が町内の子供達と遊ぶと、高学年になって子供会の役員などにかり出されるのが嫌だったんだと思う。
私にも兄にも、遊ぶ友達のことまで、母は口うるさく言って、自分の気に入らない子供や親の悪口を言って、付き合わせないように持っていくのが常だった。
遊びたいと思った時には前もって、友達が『計算が1番』とか、『賞をとった』とか、そんな母親の好きそうな情報を入れておかないと、母の知らない子供と遊ぶと、あからさまに嫌な顔をし、感じが悪かった。
『友達』は、競争相手で、信用してはいけないとも日頃から兄に吹きこんでいた。
親の言うことが1番正しい。親の言うことさえ聞いていれば間違いない。そんな偏った考えで洗脳された兄は友達と遊ぶところをあまり見たことがなかった。
人と関わるのがあまり得意じゃなく、小さい頃から本ばかり読み、また、そんな手がかからず、本の他に何も欲しがらない兄を母は褒めそやした。
「どうしたら佐藤さんちみたいな息子さんになるの?」
品行方正で、大人が扱いやすく、勉強家な兄を、近所に住む同じ年頃の子供を持つお母さんがそう言ったと、買い物から帰ってきてご機嫌で話したが、私は決してそうは思わなかった。
「きっと将来、絶対に困るよ!」
母にそういうと
「ほんとにあすみはかわいげがない子ねえ!」
と言われるのがオチだった。
そんな堅物な兄も、高校生になると似たり寄ったりな友達3人で一緒にいるようになる。
ある日家に、小学校低学年以来の友達を連れてきたと、両親が上を下への大騒ぎで、ジュースやらお菓子やらを私に「持って行って!」と言い、長らく部屋で何をするでもなく、時々3人で大笑いする声が聞こえると、両親と顔を見合せ安堵したのだった。
ご機嫌の父が「鮨でもとってやれ」と、出前のお鮨をとり、親御さんに連絡をして、その日、結構遅くまでいた。
友達を家に連れてきたことが、どれほど珍しかったかがわかるだろう。
兄は最初のうち個人が経営していた塾にも行っていたが、
「だめじゃ、あの先生」
と、家に帰るなりプィとした。
兄から様子を聞くと、数学の文章問題を解いている
と、解答とは別の考え方で答えを導き出す方法を説明した時に、先生が問題を前に考えこんだ、と言うもので、たったそれだけで
「行っても無駄」
と、あんに、『できる兄が先生を説き伏せた』みたいに思ったか、母が舞いあがって塾の先生に電話をしていた。
「まあ・・・先生にはお世話になったんですけど、そういうわけで、自分で勉強するって言うものですからあ」
と、王様みたいな扱いに、そばで聞いていた私はオェーっと吐きそうな気分になった。
そこには、今から同志となる同じ受験生がいるだろう。いろんな情緒交換だってしなければいけないだろう。大学受験に必要ないろんな情報も先生の力を借りなければならないだろうに、『さすが息子』とでも言わんばかりの 『とんでも母』に、もう何を言っても私の忠告には耳を傾けるような母ではないし、ほっておくことにした。