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母から受けていたモラハラ マネハラ その背景 2


今日、1日、家族と過ごした幼少期をずっと思い返していました。
思い返すと楽しかったこともちょっとはあったかなと思い出しました。


私は、母のことが嫌いでした。

門限は冬場は5時、夏は6時。
見るテレビ番組は2つ、30分以下 流行りのテレビ番組が見られなくて、学級の中で話の輪に入れず、まるで見ていたように友達の話しに頷くだけで、いつかバレて仲間はずれにされないかとはらはらしました。

小学生のうちはおこづかい月300円、学校で必要な文房具もそこから買う
結婚するまで、お泊まり禁止

生活はいろんな縛りが多く、息苦しい家でしたが、だからこそ、心は外へと向いて、多くの出会いを求めて世界を少しばかり広げていったのも確かです。



負けん気の強い、母は、洋裁の内職をしながら、当時、流行していた刺繍教室、パン教室、お菓子作り教室、着付け教室、書道教室、とありとあらゆる習い事をしてましたね。
学校に行くことができなかったということが、母を焚き付けたのでしょう。


着てる洋服がいつもと違う時は、どこか出かけた時です。

たいてい、美容院か、デパートか、でしたが、ヘアスタイルもいつもとかわらず、デパートの紙袋もないのに、よそ行きの服の時には、刺繍教室とか、着付け教室とかの習い事です。
「どこに行ってたん」
と聞くと

「ちょっとね、用事」

とごまかしてましたから、父には内緒だったのかも知れません。そんなにたくさんの習い事はお金もかかってるでしょうからね

パン教室に通っているときには、毎朝、いい匂いの熱々のロールパンが朝の食卓に登場しました。

刺繍教室に行っていた時には、刺繍の作品がたくさんできあがりました。

母は何でも器用にこなして、そこで知り合ったお友達と家を行ったり来たりして、楽しそうでした。
母の一番良い時代だったんじゃないかと思います。


付き合いが広がると、お洋服や着物などにもお金がかかったのでしょうね
誰かの伝手できた外商が、宝石や反物など持ってやってきて、あれじゃない、これじゃないとお友達も呼びよせて賑やかでした。母は見栄っぱりで負けず嫌いでしたから、他の誰かが買い物をすると負けじと買っていたのでしょう。
また、そんな時代だったのかも知れません。
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あの時のお付き合いは、幼稚園の兄と一緒のひとつ上の女の子達のお母さんが多かったです。

福原さんや、原田さん、松本さんや、池田さん、母は結婚してからなかなか子宝に恵まれず8年目にしてやっとできたのが兄だったので、ほかのつき合いのあったお友達は、たいてい5.6才、年が下でしたね。
にもかかわらず、亡くなった時にはお葬式にはおろか、誰かにお香典を預けるでもなく、一緒に旅行も行った仲だったのに、お悔やみの言葉ひとつなかったのは、母が嫌われていたからだと思います。

顔も美人、明るくて社交的、話題も豊富で、最初こそ、その雰囲気に惹かれて人が集まってくるのですが、何故でしょうね。


母はお料理が上手で懐石の勉強をするようになると、和食器を収集するようになりました。
女性オーナーは母より歳が少し上で、博学で知識人、お店を覗いては、オーナーと意気投合、その度に高い器を買って帰ってきました。
「また買ったの?!」
増える食器に収納場所がなく、新たに作り付けの食器棚を別注したほどです。


私は、欲しいものがあると、誕生日でもないのに、何でも買ってもらえた夫と違って、我慢させられることが多かったです。
欲しいものは誕生日だけ。1年に1度の誕生日に、本当に欲しいものを考えて買ってもらう・・・

それは家の方針、『躾』だったのでしょうが、年齢が上がり、いろんな事が見えるようになってくると、母が買ってくる、年に数回しか食卓に出てこない、高い器より、もっと有意義にお金を使う道があるんじゃないかという思うようになりました。



次に続きます




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