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モラハラ夫に堪えられるのは、モラハラの母に育てられたから


私がモラハラ夫に堪えて暮らすことができるのは
他の何でもない、モラハラの母に育てられたからです
息苦しい家でした。

周りにも似たような家庭がわりとありました。
昔ですから、その土地に根付いた封建的な側面もあったのかもしれません。それが普通と思っていました。

男尊女卑
私にはもう、10年以上会ってない兄がいますが、
『長男大事』の家風で、兄は大事に育てられました。
お夕飯に出る食べ物から差がありました。
兄には、和牛や雲丹などが出されるのに、私にはなく、「私もちょうだいよ」というと、ぱしっと手をたたかれました。その理由が「長男だから」という理由でした。


男に生まれたというだけで、美味しくてやわらかい桃は兄に、固い桃は私に、という具合。何かにつけて差を感じていました。
洋服も買ってもらえたのは1年に1度?くらいでしょうか

私は男の子っぽかったという、理由で着るものは兄のお下がり
或いは、同じクラスの体の大きなこの子おさがり。
決して貧乏な家庭ではなかったのに、きらびやかに着飾っている母とは正反対、顔も美人な母とは似てもにつかず、母の大嫌いだった父方の叔母に似ていたことで、私はターゲットになっていたのだと思います。


父が船にのる仕事の関係で家を留守にすることが、多く、家の中は、母、兄、そして私。
母は兄とばかりお喋りしました。

お母さんという存在は唯一無二、最大限の愛情を惜しみなく注いでくれる・・・

本当はそんなイメージなのに、私への愛情は感じませんでしたね。自分に似た兄のことが本当に可愛かったんだと思います。


私は母が大嫌いでした。

もう、手の施しようがないと医者から言われて、残り少ない人生の終末になれば、愛情が湧きあがるかと思いましたが、息を引き取るまで、残念ながら愛情は感じませんでした。

何故でしょうかね


子供の人生の中に親の出る幕がどのくらいあるでしょう。

学校の入学式や卒業式、結婚式、子供が生まれたら、産後くらいはみてもらいたいですよね

そして、マイホームを建てた時など、親の愛情を感じる時です。

そんな人生の分岐点だけではなく、日常の生活の中でも、母に愛情を求めてばかりで、『いつかきっと通じる』『いつかきっとわかってくれる』
そんな幻想を見ながら私は過ごしてきました。

私は母親に愛情を持って育てられてなかったんだと気がついたのは、結婚して24年の歳月が経ったころ・・・つい、10年くらい前のことです。

母の呪縛から解き放たれるのに、その家庭で生きた同じ位の年数がかかったということです。

きっかけ?

それまでも、『嘘でしょ?』と疑いたくなるような事実の積み重ねで、私はその度に落胆してきました。
幼い頃から、母は大嫌いな叔母の顔に似た私の落胆した顔が面白かったのでしょう。

最後は娘の成人式の時だったでしょうか

私にはお振袖が2つありました。
ひとつは亡くなった祖母が私がまだ、15歳の時にお金を貯めて買ってくれたもの。

それが、少し大人っぽ過ぎて、成人式の半年前に懇意にしていた呉服屋さんで母が誂えてくれました。
日頃から、私にはお金をかけなかったので、とても嬉しかったのです。

母は私の知らない間に親戚の人に譲ってお金を受け取っていました。
それを元手に自分用にリアルファーのコートを買って嬉しそうにきていました。きっとその頃の流行りだったのでしょう。

なんだか、がっかりしました。
「もうひとつ、お振袖があるんだからいいじゃない」
思い出に共感することはモラルハラスメントの母にはできないのでしょうね。

あの時、黙って売ったお振袖の代わりに「長女に買ってあげて欲しい」と頼みました。

長女は着物に興味はありません。取り戻したかったのは、遠い昔に置き去りにしてきた私の気持ちだったかも知れません。

「あんたの着せといたら」

現代っ子は振袖など興味はありませんから、別に貸衣装で良かったのですが、私はどうしても誂えたくてお振袖を作りました。

予算のないお振袖、成人式も様変わりして、妙に力の入った成人式が終わると、抜け殻のようになりましたね。

実母として、娘の私にできること。嫁入り支度、産後のお手伝い、新築祝い、娘の成人式、その時、その時、ここ一番という時に母は何もしてくれませんでしたね

でる幕がなくなったのが10年前のことです。

元気で強くて傲慢で周りに敵無しだった母は、病気にかかってから急に弱ってきました。

そのときにはもう、兄も家に寄り付かなくなって、不安を感じたのでしょう。

自分がどんなに子供や孫にしてきたかを電話してくるようになりました。
私が必要としている時、困っている時には目もくれないどころか、私が疲労で立ち上がれなくなり、救急車で運ばれ、10日ほど、入院したときでさえ、

「4人も子供産むからよ!」とバカにしました。



私は母から何か、優しい言葉をかけてもらおうとか、最後は私に何かしてくれるだろうとか、そんな妄想は持たないことにしました。


「料理にいちいちケチをつける」

と新婚の頃に母に相談したことがあります。

「すぐに離婚して帰ってきなさい」


即答でした。
それは、私のために言っているのではないことはすぐにわかりました。

よく働き、金融関係の仕事についていた私は、家計を助け、便利だったのでしょう。


実家に戻って母の下僕となるより、モラハラ夫との生活するしか、私に選択支はなかったのです。

 

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