あすみとモラハラ夫との卒婚生活

モラハラ夫  卒婚生活 カサンドラ

モラハラ夫の両親


昨日は、帰ってきた長女とランチに行ってきました。

この前、夫のことを相談したので、たぶん気にかけて帰ってきてるんだと思います。

 

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夫は能天気に過ごしています。

暫くは機嫌がいいです。良かった。

 

 

昨日、私がまとめて車に積んでおいた資源ごみをゴミステーションに持っていってました。段ボール箱だけが大きかったので、

「それだけ縛って持っていってくれる?」

と頼んでおいたのですが、捨ててませんでしたね。

夫にとって私は下僕、ご主人様が下僕のいうことを聞くはずがありません。

「どこが家政婦なんだ!誰が家来なんだ!家来に誕生日に花束なんか誰が買ってくるんだ!」

そう言われたこともありますが、年に結婚記念日と誕生日にプレゼントをしたら、それは夫が奥さんを大事にしている 

と夫の中では、そういうことになってしまっているみたいです。

 

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 私は、「美味しいね」と笑いながら、ご飯を食べたいし、重たいものは「僕がもつよ」って言ってもらいたい

男の方が力は強いんだから、「手伝って」言ったときには「いいよ」って気持ちよく手伝ってもらいたい。

 

でも小さい頃から王様のように育てられたモラハラ夫には、きっとそんな人の気持ちなどわからないんでしょう。

それは育った地域性や長男に生まれ育てられた環境なども関係してくるのかもしれません。

 

モラハラ夫は、やはり昭和一桁の父親にも似ているような気がします。

お舅も間違いなくモラハラです。

 

食事が気に入らなかったり、気に食わないことをお姑が言うと、所謂、ちゃぶ台返しっていうんですか、ひっくり返していたそうです。

お姑はお舅とは幼なじみということもあり、負けずに言い返してつかみあいの喧嘩になっていたそうです。

 

お姑は都会の裕福な8人兄弟の末っ子。みんなに可愛がられて大切に育てられたのですが、やはり我が儘なところもあったと思います。

3人兄弟の真ん中が舅。でも小さい頃に他2人の兄弟を亡くし、ほとんど一人っ子みたいに、育てられたそうですから、きっとどちらもが引かなかったのでしょう。

 

 

 

昭和の時代の父親はそんな人が多く、殊更に取り上げる事例でもなかったのでしょうが、ここ数年で多くなった熟年離婚も『モラルハラスメント』という言葉がまだ社会に浸透してない中で、ただ一方的な夫に耐え切れず離婚を申し出る・・・といった具合だったのかも知れません。

 

女性が仕事を持ち社会進出してきてから様相は変化してきました。

お姑も子供の学費を賄うために仕事をしたいとお舅に言ったとき、「俺の稼ぎがたりないって言うのかあ!」

と殴る蹴るの大喧嘩になったそうです。

昔は夫の収入で家族を養っていっているというのが男の甲斐性みたいに言われていましたからね

 

お姑はゆとりのある家で育ったので、兄弟もみな大学まででて、兄弟たちも教師や会社経営・・・またその子供達、夫にとっては従弟ですが、医者や都市銀行の役職など、それなりになり、教育を十分にかけたかった義母は負けられないという見栄があったのだと思います。

 

 

生活の糧のために、お舅の反対を押しきり、若い頃の経験を生かして経理の仕事で働き始めました。

もともと、あまり、家事が得意ではなく、働く方が向いていたのかも知れません。

30歳で、まだその頃は珍しかった運転免許をとり、車を買うと、家族みんなで、よくドライブに行ったそうです。

お舅は40前にリュウマチを患ったことで、ビンを開けたり、電球を替えたりできず、そういう仕事はすべてお姑の仕事。

勿論、結婚してから1度もゴミ出しを頼んだことはないそうです。

 

お姑は、友達や子供たちと、よく一緒に何泊かの旅行にも行っていたそうですが、(そういう時にはどうしていたんだろう)

と不思議に思って義母に聞いてみたら、「あら、隣の人に頼んでいたのよ」とあっさり返された時には、驚きを隠せませんでした。

家に住人がいるのに、隣の人に頼む・・・

私には、あまり理解できないことでした。

 

電球を替えたり、ビンを開けたり、灯油缶を両手で2つ抱えたり・・・

お舅がお風呂上りに着るパジャマを

「温めてあげとかなくちゃ」

と炬燵の中に入れて温めてました。


痴呆になった義父を看、夜中に喘息の咳が止まらず、起きて義母の背中をさすり、日中は仕事に出て、家に帰ると家族6人分の支度・・・

 

モラハラ夫が帰省先の自宅でお風呂から上がった時のこと。

「脱衣所が寒いよ」

というと、義母は

「わかった。明日は温かくしとく」

と翌日、脱衣所の洗濯機の上に電気ストーブを置いていました。

洗濯機の蓋は少しカーブしており、私は、温かいとか寒いとかいうよりも、その電気ストーブが滑り落ちないかと、はらはらしました。

 

義母がカフェオレを夫に差し出すと、夫が

「な~んこれ膜はっとるじゃん」

牛乳を温めたときに器に薄くはる膜のことですね。

そういうと、隣のキッチンからあわててきて

「あ~ごめんね~」

と、テーブルに置いてあった楊枝たてからつま楊枝を抜いて、夫のカフェオレの器から、そっと巻いてだしていました。

 

私は、そんなこと、いちいち口に出さなくても、夫が自分で出せばいいのに と思いました。


夫が不平不満を口にすると、義母はサッとその原因を取り除くのが当たり前だったのです。


そんな両親を見て育った夫にとって、私も義母と同じように、自分の不平不満を聞くのが当たり前と思い、疑ってないと思います。

だから自分の意見を聞くのが当たり前、自分と違う意見を言うと、反抗されたと思い込み、腹もたつのです。


私がモラハラ夫の不満を義母に相談すると、「あすみさん、もっと賢くなりなさい」


『豊かな生活をするために、夫をおだてて、立てて、賢く立ち回りなさい』


ということでしょうか


義母もモラハラなお舅に腹を立てながらも、生活のために、身を粉にしながら、夫を立て、尽くしていたのでしょうか



 お舅は62歳の時に大腸癌を患い、亡くなりました。

義母は、人工肛門に便がたまると、その都度、綺麗に洗浄してあげ、甲斐甲斐しく尽くしていました。


昭和時代のモラハラのお舅は


「このお母さんはね、本当によくしてくれたよ」


その場にいた私の顔をみて、しみじみと何度も、側にいた義母に伝えるようにそう言いました。


大腸癌で入院していた何ヵ月かの間に、お舅の勤めていた会社が、多額の負債を背負い、幹部社員だったお舅も連帯責任を負い、30年あまり働いた会社なのに、退職金ももらえないまま、この世を去りました。

 

 

義母は本当に家族に尽くし、苦労を重ねてきたと思いますが、いつも朗らかで明るく、私はこれは、義母のお育ち 、以外の何ものでもないと思っています。


そんな母も、認知が進み、今は、孫の名前と顔も一致してないほどになってしまいました。

まだ、それほどではなかった時の、義母の発した言葉が私は今も、耳から離れません。


「私が兄弟の中で、一番貧乏くじひいたね   あの人と結婚してたら、また違っていたかも知れんね」


 『あの人』とは、お舅と結婚する前にお付き合いしていた男性。



後悔というのではないだろう。

ただ、ただ『もう少し違う人生』ということ。

疑問を抱えながら、掴み切れなかった自分の人生に少しばかりのマイナス点。


私はどうだろう

 

 




 

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